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─二十五章  決戦 ・ 下(2)─



「しかし驚いたな。正直に白状するが、君のことはすっかり私の念頭からぬけ落ちていたんだ。この地で君を感じたときは、信じられない思いがしたよ」

そう語りかけながら、シリオスはイノの左腕に視線を向けた。服を裂きあらわになった人のものではない腕を見て、感心した表情がその顔に浮かぶ。驚きはカケ ラも見られない。なぜならば、それをながめる彼自身の両手が、すでに服や手袋を引き裂き同じ異質さをあらわにしているのだから。

「あれから、ずいぶんと〈力〉の扱いを学んできたようじゃないか。独力なのだろう? それで『死の領域』を突破できるとはたいしたものだな」

「べつにオレ一人の〈力〉だけじゃない。みんなが力を貸してくれたから、ここまで来れたんだ」

イノは相手の姿から目をそらさずに答えた。

「みんな、か」シリオスの唇が嘲るようにつり上がる。

「そういえば、君とは別にもう一つ〈力〉の存在を感じたのだが……それは何者だ?」

「『楽園』が崩壊したときに脱出した『樹の子供』の子孫だ。シリアの願いをかなえる人間が現れるまで、彼女達はずっと『死の領域』で待ち続けていた」

「ほう。そんな者達がいたのか。シリアは私には教えてくれなかったな。なるほど……その時点で、彼女は私ではなくアシェルと結託する気でいたわけだ」

「なぜだ?」

イノは強く問いつめた。

「どうしてあんたはこんなことをする?」

「こんなこと? 『樹』の中の子供達を解放させてやろうとしていることがかね」

「それが何を意味するのかわかっているのか? 『虫』が世界にあふれて……みんな殺されることになるんだぞ!」

「わかっているとも。だが仕方ないだろう。そもそも、人の愚かさと醜さとが『虫』という存在を生みだしたのだ。自業自得だよ。『樹の子供』の子孫とやらに 会ったのなら、君も今はその事実を知っているはずだ」

声を荒げるイノに、あくまでも落ち着いてシリオスは答える。 

「それは過去に一部の人間がしたことだろ? 関係ない人達まで巻きぞえになることはないじゃないか!」

「ごもっともな話だがね。もはや、その言葉は『樹』の中で荒れ狂う同胞達には届かないよ。彼らの憎しみは、すべての人間を殺しつくすまで止まらない。そし てそれが終わったとき、世界は本来の在るべき姿を取りもどす。私はそれが見てみたいんだ」

「いったい何なんだ? あんたの言ってる『世界の在るべき姿』って」

「『樹』が創るはずだった世界のことだよ。この大いなる存在の〈力〉を中心として、すべての生命が一つに繋がった……怒りも、憎しみも、悲しみもない真の 『楽園』だ」

シリオスは頭上できらめく緑の葉をまぶしそうに仰ぐ。そして、眉をひそめているイノに視線をもどした。

「彼……もしくは彼女は、その創造のためにこの地にそびえ立っているんだよ。内包する夢を実体化することのできる〈力〉を用いて、周囲の環境に干渉しなが ら、永い時をかけて世界を造り変えるためにね」

『樹』の存在する理由──初耳だった。

「なんで……あんたはそんなことまで知っているんだ?」 

「君の肩にいる相棒から教えてもらったのさ。私達が初めて出会ったときに。もちろんアシェルもこのことを知っていた。だが、その様子だと君に話してはいな かったようだな」

「シリアから教えてもらった?」

「いまや彼女は『樹』と同化しているに等しい。だからこそ、『樹』について深く知ることができた。もっとも、『樹』そのものはたいした知性を持たず、自分 の為していることについては理解すらしていないようだがね。いわば赤ん坊のようなものだな。巨大な力で世界を生まれ変わらせる赤子……それが『樹』の正体 だ。なぜこのようなものが存在するのか。偶然か、何者かの意図か、それは今となっては誰にもわからないことだが──」

シリオスはそこでいったん口を閉じた。『樹』についての途方もない話を、イノが飲みこむのを確認しているかのように。

「私達には想像もつかないはるか昔から、『樹』による世界の塗り直しは緩やかに行われていた。この地を中心に少しずつその規模を広げながらね。そこに 人≠ェ 現れてしまったのだ。彼方から忽然と訪れた人間は、予定外の異物でしかなかっただろう。しかし、『樹』は寛容にも彼らを受け入れようとした。〈力〉による 人への干 渉──その結果生まれたのが『樹の子供』という存在だ。新たなる世界に息づくべき、新たなる生命としてね」

「新たなる生命……」

「そう。『樹』は人間に共に生きるべく手を差し伸べたのだ。だが、彼らはその手をはねつけた。自らの保身に固執するあまり、自らの手で来るべき世界への扉 を閉ざしてしまった。それが『樹の子供』達の虐殺だ。そしてすべてが狂ってしまった。世界を創造するはず夢は、怒りと憎しみの破壊の夢に取って代わられ た。こうなってしまっては、もはや『樹』自身にもどうしようもない。病巣のごとき憎悪をすべて吐きださない限り、『樹』は永遠に本来の夢を見ることができ ない。新たなる世界への扉は、ずっと閉じたままなんだよ」

見るがいい、とシリオスは彼方できらめき続ける虹色の波紋を指差した。

「犯した罪を罪とさえ認めず、それどころか自らの憎しみを晴らすために何もかもを犠牲にしようとさえする。過去であろうと、現在であろうと変わらない。こ れこそが人間の姿だ。今の世界を醜く形作っているものの……正さなければならないものの正体だ。そしてそれが成せるのは、来るべき世界の住人たる資格を持 つ、私達『樹の子供』以外にはいない」

「それはちがう!」イノは叫んだ。

「レアも、スヴェン達も、今必死であの獣を止めようとして戦ってる。それは怒りと憎しみのためじゃない。オレは人間全部が、あんたの言うとおり醜いとは思 わない!」

「レア?」シリオスは眉を上げた。「ほう。あの娘もこの地に来ているのか」

「そうだ。レアは自分なりに必死になって、祖先の犯した過ちを償おうとしている」

「それはそれは。なんとも泣かせる話じゃないか。だが、彼女とて一介の人間だよ。その本質は他となんら変わらない」

「そんなことはない!」

「そうかな? 今の自分を見てみたまえ。得体の知れぬ〈力〉を振るい、バケモノじみた身体を持った者を、彼女が喜んで受け入れると本心から思うか?」

一瞬だが、イノは言葉につまった。自分自身が相手の言うように考えていたからこそ、異形と化したこの腕を最後の最後までレアに見せることができなかったの ではないか? 彼女が自分を拒絶することはないと信じていながら、それでもわずかな可能性を怖れていたのではないか?

「今は互いの目的のために手を取りあっているからいい。だが、それが終わればどうする? その後も共に生きるとなれば、君の〈力〉と姿は否応なく彼女の目 を引くことになるだろう。それは両者の間に決して埋まることのない溝をつくる。そこから生まれるのは……悲劇だけだ」

「何をわかったように──」

「わかっている≠ゥらこそ言うのだよ」

重ねられた声は、思わず息をのむぐらいに優しかった。

「私は君とちがって、幼い頃から〈力〉に目覚めていた。だからこそ、異質な者に対する人々の反応は身にしみて知っている。君だって気づいているはずだ。世 界が今のままである限り、我々のような存在が許される場所など、どこにもないということをね」

それに、と静かに続けるシリオス。彼から感じる〈力〉。

「高い知性をもたないとはいえ、この『樹』自身も、『虫』という悪夢を終わらせ本来の夢を見たがっているのだよ。しかし、その願いはシリアという存在に よって阻まれている。彼女は『樹』と同化したことを利用し、その〈力〉をもって悪夢が吐きだされるのを封じ続けている。彼女の行為は、『樹』と虐殺された 同胞達に対する裏切り≠ニいってもいい。そしてそれは、二百年前『虫』の拡散によって早々に終結するはずだった悲劇を引きのばし、人との戦争というもの を起こさせ、この世界によりいっそうの混迷を広げる結果となったのだ」

イノの肩にいる光を苦々しく見つめるシリオス。彼から感じる〈力〉。

「すべてを終わらせるには、シリアが『樹』に施した縛めを解いてやらねばならない。しかし、それが可能なのは彼女と同等の〈力〉を持った『樹の子供』だけ だ。自らに巣くった悪夢を解き放ってくれる者を『樹』は求めた。限られた〈力〉をやみくもに外の世界へと伸ばして。そして、そのわずかな干渉の結果生まれ た『樹の子供』が私やアシェル、君といった者達だ」

冷たい〈力〉……その奥底にあるもの。

「ここまで言えばもうわかるだろう? 我々が持つ人ならぬ〈力〉の……いや、我々の存在そのものの意味と目的が。それは、この大いなる存在を悪夢から救い だすためにあるのだよ。私はその事実をシリアとの出会いの中で悟った。だからこそ、ここまでやってきた」

さあ、と手を差し伸べるシリオス。

「君も私と行くべきだ。『樹』の根源へ。裏切り者の施した枷を外し、本来の〈力〉を取りもどさせるために。そして、すべてが終わったあかつきには永遠の安 息が訪れる。世界が至福そのものに生まれ変わっていく様を夢見ようじゃないか? 我々の──この『ラフスルエンの樹』と共に」

しばらく沈黙が流れた。聞こえるのは頭上の緑のざわめきと、彼方から響いてくる鈴に似た音だけ。

「わかったよ」

やがて、差しだされた手を見つめたままイノは答えた。

「ようやく、己の果たすべき役目を理解してくれたかね?」

「そうじゃない」

相手の瞳に視線をうつす。

「あんたの〈力〉にあるものが今わかったと言ったんだ」

「私の〈力〉?」

「アシェルが教えてくれたよ。『樹の子供』同士の〈繋がり〉は、相手の強さだけじゃなく、その内面をも伝えあうんだって」

「その通りだ」シリオスはうなずく。「だからこそ、私には君の抱えている不安や苦悩がわかる。我が身がそうだったから、という経験だけで言っているわけで はないよ」

「あんたの〈力〉を最初に感じたとき、オレは怖ろしかった。強さもそうだったけれど、シリアやアシェル、そして『虫』ともちがう冷たさが何よりも怖かった んだ。オレにはその正体がずっとわからなかった。だけど、ここであんたの〈力〉と言葉にふれるうちに、ようやくそれが理解できた」

「ほう」彼は眉をひそめた。「では一つ聞かせてもらえるかな? 私の〈力〉の中にあるものが何かを」

「絶望だよ」

イノは静かに告げた。

「絶望?」

「そうだ。あんたはこの世界に絶望している。そして恨んでいる。あんたがここまで来たのは『樹の子供』の使命とか、『樹』が創る新しい世界のためじゃな い……あんた自身が心の底からこの世界を壊したがっているってだけだ」

シリオスは表情も変えずに、じっとこちらを見つめたままだ。

「何が人の愚かさと醜さだ。あんただって同じじゃないか。自分の絶望をぶちまけるために多くの人間を犠牲にしようとしているあんたに、そんなことを言う資 格があるものか」

「多くの犠牲というがね。それはただの必然だよ。大事の前の、ほんの小事にすぎない」

「レアの両親を殺したこともか?」

「むろんだ。もっとも、命じたのは彼女の叔父だがね」

「アシェルを殺したこともか?」

「彼女との決着は小事とは言えないな。だが必然であったことは同じだ」

「ふざけるな!」

イノは怒鳴った。

「そのせいで、レアがどんなに苦しんだと思ってる?」

心に抱えたものに壊れそうになり、泣きじゃくるレアを抱きしめたあの夜のことは、はっきりとイノの胸に刻まれている。彼女をそこまで追いつめたのは目の前 にいる男だ。だが、彼はそのことに対して何も感じていない。何ひとつ。

「苦しみなどそこら中にあふれているよ。夜空にまたたく星々のようにね。君はそのうちの一つの輝きを見て物を言っているだけだ。だが、私は夜空そのものを 見ている。星々一つ一つの醜い輝きによって大きく歪められた夜空をね。だからこそ正さなければならないと誓った」

「ちがう! あんたは周りの何も見ちゃいない。自分自身の暗いものを見続けているだけだ」

「やれやれ」と、シリオスは肩をすくめた。

「君も、昔のアシェルと同じことを言うんだな」

「彼女にもわかってたんだ。だから、あんたと戦ってまで止めようとした」

今ならアシェルとの〈繋がり〉に感じた悲しみの本当の意味がわかる。彼女が本当に解放したかったものが……救おうとしたものが何だったのかがわかる。それ なのにこの男は。自分よりも、ずっとずっと彼女と繋がっていたはずのこの男は。

「その結果を君だって見ただろう? 彼女が本当に私を理解していたというのなら、ああはならなかったさ」

「それが……あんたは何も見ちゃいないって言うんだ!」

「『何をわかったように』という台詞を、そっくりそのまま返さなければならないようだな」

まあいい、と彼は続けた。

「たしかに私はこの世界を見限っているよ。絶望とも、恨んでいるとも、君の好きなように表現したらいい。だが、それは希望の裏返しという意味でもあるんだ よ。これから訪れる新しい世界へのね。私は本当にそれを望んできたんだ。幼い頃からずっと」

「そんな世界は訪れない。オレがそうさせない」

「どうしても、私と手を携える気はないんだな?」

静かにたずねるシリオスに、今度はイノが肩をすくめてみせた。今もひしひしと感じている彼の〈力〉。だが以前ほどの恐怖はもう感じない。

「オレには手を取ってくれる人がいる。あんたに差しだしてやるぶんはないよ」

レア、スヴェン達、ラシェネ、これまで出会った多くの人々。 みんな十分すぎるほど大切なものを自分にくれた。この世界で、この世界だからこそ、それを受け取ることができた。

シリオスが唇をつり上げる。

「その者達が、今後もずっと君の手を取ってくれるとは限らない。それでもかまわないと言うのか?」

「かまわないさ。オレはあんたの言う新しい世界よりも──」

あのときのアシェルの言葉をつむぎ、あのときのアシェルの笑みを浮かべた。

「この世界が大好きだ」

互いに見つめあう瞳。流れていく二度目の沈黙。

「そうか……それならば仕方ない」

シリオスの瞳が紅い光を帯びはじめる。彼の内なる扉が静かに開き、そこからゆっくりとどす黒い〈力〉が溢れだしていく。

イノも内なる扉を一気に開け放った。

「君を排し、私は自分の為すべきことをさせてもらおう」

「オレもそのつもりだ」

それぞれの言葉と同時に生まれる黒い輝き。絡みあうように、喰らいあうように、両者の間で激突する異質の〈武器〉。緑のきらめきが散りばめられた光景の中 で、『樹』が喜びとも悲しみともつかない歌声を二人だけに奏でた。 



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