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─二十五章  決戦 ・ 下(4)─



頭上から迫った巨大な輝きが、イノがとび退く直前までいた場所にたたきつけられた。激しい衝撃が周囲を震わせ、押しつぶされた根が甲高い悲鳴をあげる。し かし、それは傷ついた箇所からボコボコと虹色の泡を立たせ、またたく間にもとの姿を取りもどしていく。

そんな不可思議な光景に目をやる暇もなく、イノはすぐさま自らの〈力〉に命令をだす。主に応えて現れた黒い輝きが、まっすぐに伸びた長大な刃≠ニなって シリオスを襲う。だが、振りおろされた一撃は狙いをはずし、身をかわした相手の脇に大きな裂け目を生じさせただけに終わった。

シリオスはそのままこちらへと駆けてくる。影のように静かにすばやく。むきだしになった異形の手には漆黒の剣が握られている。

イノは再び刃≠放つ。相手も脚を止めることなく、同様の刃≠真っ向からぶつけてきた。

音もなく激突し消滅する二つの輝き。ゆがんだ大気が、目の前まで迫ってきた男の姿を、陽炎のごとく一瞬だけゆらめかせた。

その直後、懐にまで入りこんだシリオスが横薙ぎに払ってきた剣を、イノの剣が迎え撃つ。けたたましい金属音とともにぶつかりあった刃から、火花と淡白い光 の飛沫とがはじける。その消えゆく燐光をはさみ、紅い瞳同士が交錯する。

「すばらしい」

つばぜり合いの最中、じりじりと刃を押しつけながら、シリオスが爽快ともいえる笑みを浮かべる。

「同等の〈力〉を持つ者と戦うのは、私も初めてなんだ。こんなに楽しいものだとは思わなかった。それだけでも君を待っていた価値はある」

「あんたは……どこまで人をバカにすれば気がすむんだ!」

「心外だな。私は誉めているのだがね」

彼が口にした瞬間、イノは背後に気配を感じた。舌打ちと同時に転がるように脇へとびだす。ちらと走らせた横目に、牙だらけの巨大な顎≠ェ上下に噛みあわ されるのが見えた。

獲物を捕らえそこなった顎≠ェイノの頭上にすばやく回りこむ。大きな脈動を一つ打ち、殺意の輝きは瞬時にその形を変えていく。

間をおかず後ろに跳躍したイノの眼前に、錐≠フ形となった相手の〈武器〉が空間をえぐって直撃する。犠牲となった根がねじくれて派手に吹きとんだ。

大量の破片をばらまきながら錐≠ェその先端をこちらへと定める。それが動くよりも先に、身体が着地するよりも先に、イノの〈力〉が迫りくる脅威に反応し て形を現した。

やがてすさまじい勢いで突撃してきたシリオスの錐≠ノ、イノの差し向けた顎≠ェ真横から喰らいつく。ねじふせる。獣同士の争いのごとくもつれあった異 質な光達は、その暴力的な余波を思うぞんぶん大地に広がる根にぶちまけ、散々に破壊したあげく四散していった。

「実に惜しいな」

盛大にまき散らされた木くずと、ささくれだった根を包んで修復していく虹色の泡を興味深げにながめていたシリオスが言った。

「たった一月たらずでここまでのことができるようなった君だ。もっと学ぶ時間さえあれば、私以上の〈武器〉を扱うことも簡単にできただろう。それだけの才 能を『樹』から授かったというのに裏切り者≠ノ荷担したあげく、こんなところで無駄に散らせてしまうとは……。同じ『樹の子供』として、ずいぶん親不 孝≠ネ話だと思うがね」

「あんたにどう思われようが……オレの知ったことじゃない」

「やれやれ。君にはよほど嫌われてしまったらしいな」

さも愉快げな笑い声に、イノの頬を冷たい汗が流れる。荒れた呼吸を整えている自分とは対照的に、相手は息一つ乱れることなくたたずんでいる。逃れることの できない互いの〈繋がり〉が、彼の持つ絶対の自信と余裕とを伝えてくる。そして、それがこの戦いにおいてまぎれもない真実であることを、イノはじわじわと 思い知らされていた。

人の理を凌駕した力による自分達の戦いは、これまでのところ互角の展開で続けられている。しかし、互いが繰りだす〈武器〉の威力や規模にこそ差はないもの の、それを使うことへの消耗の度合いに大きな開きがあることは、傍目から見てもあきらかだった。

なおも笑い続けているシリオスのとなりに、ふわりと黒い輝きがあらわれる。彼の上半身と同じぐらいの大きさのそれは、即座に〈武器〉としての形を取ること なく、ただじっと浮かんでいるだけだ。その様子は、まるで主の命令をおとなしく待つ忠実な猟犬のように見える。

いや……事実そのとおりなのだろう。イノが必死で鎖を引っぱり扱っている猟犬を、相手はその鎖すら用いることなく従えているのだ。こちらよりはるかに多く 人ならぬ〈力〉を行使してきた経験と、そして彼自身の中にある闇≠ニによって。シリオスと子供達の怨念──両者がもはや『共存』ともいえる近しい関係を 築きあげていることが、彼の〈武器〉に襲われるたびにひしひしと伝わってくる。

そのシリオスの黒い輝きが脈打った。自らを細長い鞭≠フ姿に変えすさまじい速度で打ちかかってくる。イノも輝きを呼びだして応戦する。それは盾≠フ形 となって、主に向けて繰りだされた一撃を阻む。

無音の攻防のはてに消失する光。その光景を超然とたたずみながら見物している黒衣の男。

イノの心に焦りがつのりゆく。『敵』は目の前にいる男だけではない。内なる扉から〈力〉として押しよせてくる怨念達も、こちらに従う姿勢を見せながら、た えず自分を飲みこむ機会をうかがっているのがわかる。それを許すわけにはいかない。

一刻もはやく決着をつけなければならない状況。しかし──

そのとき、だしぬけにシリオスの顔から笑みが消えた。

彼の様子に眉をひそめたイノは、辺りを包んでいる静けさに気づいた。さっきまで彼方から鳴り響いていた鈴の音が止んでいるのだ。横に目を走らせてみれば、 宙で花咲いていた虹色の波紋までもが消えている。

獣が攻撃を止めたのだ。

それを理解したとたん、『樹』を囲む防壁のはるか先から、一筋の細い光が天高く放たれるのがイノの目に映った。

「『ギ・ガノア』が倒れたか。『虫』に攻め落とされた……にしては、予想よりだいぶ早いな」

空に溶けこんだ閃光をながめていたシリオスがつぶやき、こちらに視線をよこす。

暴れていた獣の死──その意味はイノにもはっきりとわかっていた。レアとスヴェン達だ。こちらと行動を別にした彼女達は、ついに目的を果たしたのだ。安堵 と熱い気持ちとが胸にこみあげてきた。

「あのお嬢様なのかな? だとしたら、たいしたものじゃないか。後は君しだいというわけだ」

「ああ」

イノは剣を握りしめた。レア達の努力に応えなければならない。なんとしても。

「獣の次は、あんたが倒れる番だ」

言うなりシリオスの背後に黒い輝きを呼びだす。さっきこちらがやられたのと同じように、一瞬で形をなした顎≠ェ彼めがけて襲いかかる。しかし、それは相 手がいた空間を虚しくかじっただけだ。

「そうなるといいがね」

さらに喰らいつこうとした顎≠鎚≠ナあっさりとたたき潰して消滅させると、シリオスは涼しげな顔で微笑む。

「君が大好きだと言ってあげたこの世界は、君が思っている以上に冷たくて残酷なんだよ」

とたん足下にぞっとするものを感じ、イノは前に飛びだす。その直後、根が激しく吹っとばされる音が背中にたたきつけられる。

イノはふり返ることなく再び〈力〉に命じる。生まれでる二つの輝き。片方は獣のような爪≠フ形を成し、背後にある殺意の迎撃へ。もう片方は幾十もの小さ な槍≠ニなって目の前にいる男をぐるりと取り囲む。

シリオスが四方に浮かんでいる凶器の群れを見渡す。逃げ場のない状況。しかし、その表情に動揺はかけらもない。

そして槍£Bがいっせいに突きかかる。瞬間、イノの視界から相手の笑みが消えた。彼の全身を覆いつつんだ光によって。

巨大な盾≠ェ、『虫』でさえもつらぬく槍≠フことごとくをはじき返し無へと変えていく。やがてすべての黒い輝きが宙に溶けこむように去ったとき、そこ に残ったのは以前と変わらない様子でたたずむシリオスだけだ。

イノは歯がみした。これまで何者をも葬り去ってきた〈武器〉も、同じ〈武器〉を扱う相手に対してはその猛威を存分に振るいきれないでいる。もちろん、あっ けなく勝てるなどと考えてはいなかったが、これではラチがあかない。

乱れていく呼吸。〈力〉を抑えつける疲労と、心にある焦りとがどうにもならないほど大きくなっていくのがわかる。相手のように平然とした表情ができないこ とも、この戦いが長びけば長びくほど自分が窮地に立たされていくのもわかる。さらにはそんなこちらの焦りの心境が、逃れられぬ〈繋がり〉によって相手に捉 えられていることも。

ふと何かを思いついたようにシリオスの唇がつりあがる。〈繋がり〉が伝えてくる不穏な印象──イノが眉根をよせたとたん、すぐ目と鼻の先に彼の輝きが出現 した。とっさにかがめた身体の上を、等身大の刃≠ェ薙ぎ払う。

二撃目を繰りだそうとする刃≠ノ刃≠ぶつけ、イノはさらなる輝きを呼びだす。それは放たれた勢いそのままに幾本もの矢≠フ姿となって黒衣の男めが けて突撃していく。

イノ自身も矢≠フ後を追うように駆けだす。その場を動かず待ち受けるシリオスが、こちらと同じだけの数の矢≠放ってくる。

互いに衝突し散っていく黒い光達。その憎悪のカケラのきらめきの中、肉迫した二人の剣がうなりを上げた。天におおい繁る『樹』の葉のざわめきに、甲高い金 属の音色が重なる。

「本当にすばらしい。こんなに胸の浮き立つ戦いは初めてだ」

襲いくるイノの剣をさばきながら、シリオスは心から楽しそうに言った。

「いつまでもその余裕が続くと思うな!」

イノが叫ぶ。突きだされた相手の一撃を剣の腹で受け流し、すぐさま返す刃で相手の頭を狙う。

がきっ、という鈍い音。

「その意気だ」

振りおろされた刃を、甲殻につつまれた手でがっしりと受け止めたシリオスが、息をのんでいるイノにうなずきかける。

「もっと私を楽しませてくれ。実をいうと──」

にたりと笑った顔が近づく。

「アシェル程度では物足りなかった≠だよ」

囁くような口調とは裏腹に、〈繋がり〉が相手の意志を殴りつけてくるように伝えてくる。

命をかけてまで自分を救おうとした女性を嘲笑い貶める──侮蔑を。

男が声を立てて笑いだす。イノの全身がかっと燃え上がった。

「シリオス!」

自分の口が放った咆哮。それに乗じさせるかのごとく眼前に呼びだした黒い輝き。同時に、相手の輝きが自分の真横に生まれるのを感じた。イノはためらう暇も なく、捕らわれたままの剣から手をはなす。

両者が身体を退いた次の瞬間、その場で〈武器〉同士が激突した。どっしりとした根が爆発したかのようにはじける。大量の破片が吹きあがり、まき散らされ て、煙幕さながらに互いの視界を埋めつくしていく。

イノはらんらんと輝く紅い瞳で前方をにらんだ。煙の壁に阻まれ目に見えなくとも、シリオスの存在はちゃんと感知している。その顔と意志が、すべてのものに 対する嘲りに歪んでいることも、忌々しいぐらいに把握している。

殺してやる。

突き上げるように自らの内にわきあがった純粋なまでの怒りが、憎しみが、外から押しよせる憎悪と結びついたのを感じた。

互いに喰らいあい、貪るように生まれた大きな〈繋がり〉。

まずい! と意識が放った警告。しかしそれは、内なる扉から狂喜のごとくあふれでた〈力〉に飲まれ、波にさらわれるように消えていった。

思考がどす黒くそまっていく。もう抑えきれない。止められない。

自身を満たす敵意と殺意によって、周囲に次々と異質な輝きが生まれでていく。刃、鎚、槍、牙、爪──それらはすぐさま様々な形を取って、対象を葬るべく煙 の壁の先へと消えていく。

やがて声が聞こえはじめる。

《壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ》

『樹』の中で渦巻く子供達の声。こちらの激情を歓迎するかのごとくはしゃぎ、黒い輝きが一つ一つ生まれるたびに、楽しそうな笑い声をあげる幾万もの子供達 の声。

流星のごとく周りを駆けていく光の群れ。破壊につぐ破壊。間断なく揺さぶられる大地。際限なく巻きおこる煙の壁。あふれる憎しみが周囲にまで広がってい く。

身体も、心も、〈力〉も、何もかもが焼きつくされそうに熱い。それでも、あいつ≠ェまだ生きているのがわかる。まだ存在しているのがわかる。まだ笑って いるのがわかる。

だから消せ。だから殺せ。だから──

《壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊 せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ》

重なりあう。溶けあう。

自分の声が。子供達の声が。

飲まれていく。消えていく。

自分の……。

〈だめ!〉

突如として聞こえた少女の声が、想いが、かすかに残されていた意識に届けられるのを感じた。

互いに求めあい、寄りそうように生まれた小さな〈繋がり〉。

全身を苛む熱とはちがうほのかな暖かさに、はっとした自分が心と身体に戻ってくる。子供達の声が遠のいていく。内なる扉からの〈力〉が嘘のように止まる。 周囲に現れ続けていた黒い輝きが、いっせいにはぜて消えていく。

とたん脚から力がぬけ、イノはがくりとその場に膝をついた。

「またシリアに邪魔をされたか」

ぼんやりとした思考に、立ちこめる煙の向こうから声が聞こえた。

「君が『樹』の中にいる同胞達に取りこまれるよう、試しに仕向けてみたんだがね」

再生していく根を踏みしだき、煙の中をシリオスが進みでてくる。イノは愕然と息をのんだ。ほがらかとも言える相手の口調と表情──あれほど膨大な数の〈武 器〉に襲われたというのに、傷一つ負った様子はない。すべて防ぎきったのだ。

「まあ、それは失敗したが、結果として君はこのように消耗しきってしまったわけだ。しかし、いかに未熟とはいえ、あれしきのことでタガを外してはいけない な。いっときの感情ですべてを失うのは愚か者のすることだ……私は以前にそう忠告したはずだろう?」

割れるようにガンガンと痛む頭をもたげ、紅い光を失った瞳で、イノは優しく語りかけてくる男をにらんだ。

焦りのあまり、相手のいいように乗せられてしまった自分の迂闊さ──しかし、どれほど罵ったところでもう遅い。激情とともに体温までが冷えきってしまった かのように、身体が思うように動かない。遠のきそうな意識に、さっきまであれほど活発だった〈力〉が反応しない。

〈その人は終わらせない〉

か細いながらもはっきりと聞こえる彼女の声。かすかながもはっきりと感じる彼女の存在。

「シリア。彼のために努力して現れたのは健気なことだが、もはや君にできることは何もないよ。そこでおとなしくすべての解放を待っているといい」

シリオスがイノの肩にいる金色の光に話しかける。 彼の片腕が静かに持ちあがる。その先にある黒い刃が目の前に突きつけられる。

「お別れだ、イノ君。私はそろそろ行かせてもらうよ。つくづく残念ではあるが、ここまでよくやった君の努力に報いて、最後は君自身の剣で終わりをあたえて あげよう」

乱れた息のまま、イノは相手をにらみ続ける。しかし、それが精一杯だ。

ここまでなのか? 自分は結局英雄≠ノ立ち向かうことのできる器ではなかった……そういうことなのか?

ちがう。このままで終われるわけがない。ここまで自分を導いてくれたすべてのものに対して、そんなくだらない結末が許されるわけがない。

死にもの狂いでおぼろげな意識を働かせる。内なる扉から残り香のように流れでる〈力〉が、ゆっくりと反応しはじめる。

〈武器〉を。一撃だけでもいい。あの黒い輝きを。

「月並みだが、あの世でアシェルに会ったらよろしく伝えてくれ。あの世……などという世界があればの話だがね」

含み笑いの後、彼の腕が動く。

振りあげられる自分の刃。振りおろされる自分の刃。

そのとき、イノの耳が捉えたキインという高らかな音。

そして光が走った。

たちこめる煙をひき裂いて現れた青白い輝きが、シリオスの肩口に直撃する。甲殻と肉と骨のはじけとぶ鈍い音──イノの剣を握っていた異形の右腕が、盛大な 血しぶきをあげて宙を舞った。それは、つねに笑みの絶えなかった彼の顔を赤い飛沫でいろどり、驚愕と苦悶に歪ませる。身体から吹きとばされた腕は、剣を 持ったまま離れた場所にどさりと落下した。

はっとしてイノは振り返った。薄れゆく煙の壁の向こうにしだいにはっきりと形を取っていく、青と白の織りなす小さな人影。

「……ラシェネ!」

レマ・エレジオを構えた姿勢のまま、彼女が立て続けに『光の矢』を放った。よろめきから体勢を立て直したシリオスが、すかさず黒い輝きを呼びだす。それは 盾≠フ形となり、主めがけて飛来する光のことごとくに対し、けたたましい反響を奏でて蹴散らしていく。

「私としたことが迂闊だったな……君から話を聞いておきながら……もう一人『樹の子供』がいたことを忘れていたとは」

吹きとばされた肩口を左手で押さえ、その間からボタボタと血をしたたらせながら、シリオスが吐きすてた。今もなお光弾を撃ちだし続ける少女の姿を、苦痛に 細めた紅い瞳がにらみつける。

「あんな脆弱な〈力〉と玩具ごときで……よくもやってくれたものだ」

あからさまな憎悪をうかべた顔。狂気に歪んだぞっとするほどの笑み。

「だめだ……逃げろ!」

イノが声をふりしぼって叫ぶのと同時に、シリオスの黒い輝きがラシェネのそばに生まれた。すぐさま彼女は『光の矢』を撃つのを止めその場を脱しようとす る。しかし、すでに傷を負っている身体では動きが鈍い。

直後、黒い輝きがはぜ、子犬ほどの大きさをした無数の塊に分裂する。それぞれが鋭い牙をもった顎≠ニなり、野犬の群れそのままの獰猛さを見せて少女を取り囲む。

逃れられないと悟ったラシェネが、白い籠手の先から刃を出現させるのと同時に、顎≠フ一つが襲いかかった。それは迎撃に繰りだされた鏡のような刀身をくわ えこむと、いともたやすく噛みくだき根本からもぎとる。その後に続くように、別の輝きがすさまじい勢いで胸当てにぶちあたり彼女を突きとばす。

なすすべもなく倒されながらも、うめき声一つあげることなく身体を起こそうとするラシェネへ、異質な光の群れがそろそろと移動していく。無力な獲物をなぶ り殺しにする悦びに、クスクスと忍び笑いをもらしながら。

「やめろ……」

イノのくいしばった歯からもれる声。かすかに動きはじめた指。

残虐な処刑を〈武器〉達に命じているシリオスをにらむ。失った腕からいまもなお流れでる出血に色を失った顔。しかし、少女に向けるぎらつく瞳の光と殺意だ けは少しも衰える気配がない。

「やめろ……」

さらに強く噛みしめる歯。ミシミシと甲殻をきしませ、ふるえる指をかたく握りしめる。まだ靄のかかったような意識で、じれったくなるほど反応の鈍くなって しまった〈力〉に呼びかける。

ようやく身を起こしたラシェネを待ちかまえていたように、輝きの集団が攻撃を再開した。先陣をきった顎≠フ一つが、身をかばうべくかざされた彼女の右腕 にかぶりつく。

「やめろやめろやめろやめろ……」

潰されていくレマ・エレジオ──金属のひしゃげる音──白い装甲からとび散る稲妻──血潮のように噴きだす琥珀色の液体──ラシェネの上げる悲鳴──彼女 との〈繋がり〉が上げる悲鳴──いっせいに襲いかかる憎しみ達──そして。

「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」

イノから絶叫がほとばしった。

脳天を突きぬけるかのごとき脈動。

自身の存在そのものを揺るがすかのごとき鼓動で応える〈力〉。

まばゆいばかりの光をともない、目の前に現れる漆黒のゆらめき。

紅い瞳がはっとしてこちらに気づく。だがもう遅い。

「シリオス!」

イノの最後の咆哮が、最後の黒い輝きが、巨大な拳の形となり渾身の力でシリオスへと突き進む。あわてて主を守るべく立ちふさがった盾≠も粉々にくだい て迫る〈武器〉に愕然としている男の姿が、その直撃を受け幾重にもかさなったかのごとく大きくぶれる。そして、グシャリという骨と肉の砕ける響きをその場 に残し、黒衣をまとった身体はまるで重さを失ったように背後にそびえる『樹』の幹まで大きくぶっとばされ、再び鈍い音を立てて激突した。

最後の役目を終えた〈武器〉がはじける。その衝撃をまともに受け、イノ自身も後方に派手に倒れこんだ。まともに根へとぶつけた頭が、からっぽになってし まったかのような思考をごん、と激しくふるわせる。

やがて。

静寂が訪れた。

視界いっぱいに広がる緑のきらめき。聞こえるのは自分の浅い呼吸。そして、風に葉がそよぐ音だけ。

〈起きて……〉

と、知っている少女の声。

倒れたままの姿勢で頭を動かす。すぐそばにいる金色の輝きを見る。

〈彼は……まだ終わっていない〉

弱々しく響く少女の声。痺れた身体に力をこめ、イノはうめきながら身体を起こす。

瞳をこらす。ずっと向こうに、血だまりの中で巨大な幹に背をあずけている男の姿があった。

動いている。あいつはまだ生きている。

〈急いで……お願い〉

金色の輝きを手に取り、イノは歯をくいしばって立ち上がる。

前に進みだす。すり足に近い貧弱な一歩。また一歩。脚を動かすたびに突き刺すような痛みが全身を襲う。

途中にある、シリオスのちぎれた右腕に近づく。いまだ鮮血をしたたらせている灰色の腕のそばに膝をついてしゃがみこみ、それが握りしめたままでいる自分の 剣を、かじかんだようにもどかしく動く指で取り返す。

胸に小さな光を抱えて。片手に黒い剣を握りしめて。

ぜいぜいと呼吸を荒げてふらつきながら迫る自分を、シリオスがじっと見つめている。その黒い瞳──お互いに、もう輝きを呼びだすだけの〈力〉は残っていな い。

「やれやれ……まさかこんな情けない結果になるとはな」

風に乗り流れてくる男の声。遠くからながらもはっきりと聞こえた。

「いっときの感情でタガを外してしまったのは……どうやら私も同じだったらしい。君を侮辱したことを……謝らねばならないな」

彼の忍び笑い。それはごぼりと吐きだされた血の塊でとぎれる。

「しかし……何が起こるかわからないものだ。もっとも……それがこの忌々しい世界における……私の唯一の楽しみでもあったがね」

「あんたを……終わらせる……シリオス」

イノも切れぎれに返す。ときおりかすむ視界と、思うように動かない身体のせいで、相手との距離が永遠のものであるかのように錯覚する。

「そうはいかない」

乾いた笑い。ふるえる彼の片腕が愛おしそうに『樹』の幹をなで、べっとりと赤く濡れた跡を残していく。

「君との決着は残念な結果に終わったが……私は予定どおり行かせてもらうことにするよ」

血ヘドを吐きながらの笑い声は続く。そして、しだいに立ちこめる不穏な気配。

「さあ子供達よ……私を……導いてくれ」

シリオスの語りかけに応じるように、やがて周囲に幼い笑い声の数々が聞こえはじめた。それらはしだいに高まっていく。満ちていく。

〈急いで! 彼は──〉

切迫した少女の声。

イノは歯がみしながら最後の距離をつめた。横たわる黒衣の身体めがけて、無我夢中で剣を振りおろす。

しかし、刃がとどく寸前、彼の姿と笑い声は幹に溶けこむかのとごく消えた。

どくん──

唖然と立ちつくすイノの前で『樹』が鳴動する。途方もなく大きく。まるで世界に己の存在を知らしめるかのように。



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