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─二十六章  シリアの願い(2)─



「イノ……」

困惑して立ちつくすイノの耳に、弱々しい声が聞こえた。

「ラシェネ!」

はっとふり返り、よろめく足取りで近づいてきた彼女を抱き止める。

「ごめん……ちょっと、コレ外すの手伝ってほしい」

小さく舌をだしながら、ラシェネがだらりと下げた自分の右腕を指す。その肘から先には、シリオスの〈武器〉によって破壊されたレマ・エレジオの無惨な姿が あった。

イノはうなずいた。ひとまず彼女の身体を支えながら、大きく盛り上がった根のそばまで移動すると、その場に背中を預けさせる。

苦しげな息をつきながらレマ・エレジオの操作をはじめるラシェネを、イノは痛ましそうに見つめた。肩当ての片方がもげた白い防具。新たに斬り裂かれた肉体 の出血を止めようとしている青い服。身体を動かすことがままならない状態なのはこちらも同じだが、目に見える怪我は彼女の方がよほどひどい。まさに満身創 痍といった姿だ。

やがてレマ・エレジオが上下に展開しようとした。しかし、それはこれまでのように滑らかな動作で行われることなく、歯ぎしりに似た音を立て途中で止まって しまった。

歪み、ひび割れ、もはや光の流れることのない装甲から琥珀色の液体がボタボタと垂れていく。『楽園』の技術に関しての知識はないイノだが、それでも、この 武器が二度と修復できないぐらい完全に死んでしまったことだけはわかった。

頼むようなラシェネの視線に応じて、イノは破損した装甲に両手をかけてこじあける。しかし肝心の力が入らないため、ひしゃげた箇所に剣の柄をねじこんだり しなければならなかった。

そのとき今さらながらに、自分の両手が醜い甲殻に変質してしまっていることに気づいた。左手だけではなく、これまで無事だった右手もだ。さらに、身体中に 感じる冷えた塊の感触──それはシリオスとの戦いで限界まで酷使した〈武器〉がもたらした代償だった。まともに人の部分を残している場所は、顔や首筋と いったわず かなものでしかないのかもしれない。

全身に走る悪寒をひとまず無視し、やっとの思いで白い籠手を展開させることに成功した。イノが慎重に取り外す。幸いなことに彼女の腕そのものは無事な様子 だった。

「大丈夫なのか?」

「うん。すごく痺れてるけど……大丈夫」

役目を終え、永遠に沈黙した自らの武器を悲しげに見つめながらラシェネが答える。しかし、その白い籠手は最後に主を守ったのだ。もしそれがなかったら、彼 女の 腕はシリオスの〈武器〉に食いちぎられていたにちがいないのだから。

「なんでここに来たりしたんだ。あの建物にいるはずだったろ?」

「イノが行った後……シリアの声が聞こえた」

「シリアの?」

「彼女の声、わたしは初めて聞いた。イノが危なくなる……そう言ってた」

苦々しい顔でイノは目を伏せた。シリオスとの戦いが危ういものだったことは認めなければならない。相手はこちらよりもずっと上手だったのだ。もし、あのと きラシェネが手を貸してくれていなければ、確実に自分は敗れていただろう。

「大丈夫。レマ・エレジオは死んじゃったけど、わたしはまだ生きてる。イノを助けることができて、本当によかった」

痛みをこらえてこぼしたラシェネの笑顔がぼやけた。目をしばたき、イノはいたわるように相手を抱きしめる。そうせずにはいられなかった。もはや言葉も〈繋 がり〉でさえも、彼女への感謝の想いを伝えきることはできそうになかったから。

「彼は……どうなった?」

やがて、腕の中からラシェネがたずねてきた。

「わからない。いきなり目の前から消えてしまったんだ」

イノはシリオスのいた場所をながめた。そこには大量の血だけが残されている。とどめを刺そうとした瞬間、相手は溶けるようにいなくなってしまったのだ。

そして、どくん──というあの鼓動。

イノは『樹』を見上げた。世界を振るわせてしまうほどの大きな脈打ちを起こしたのが、目の前にある存在であることは間違いない。

脈動はあのときの一度だけ。しかし、それと引き換えにするかのように、これまでに感じたことのない禍々しい気配が周囲に満ちているのを感じた。『楽園』全 体に……いや、そのずっとずっと先にまで。

いったい何が──イノが疑問を口に出そうとした瞬間、

〈あの人は……〉

少女の声が頭に響いた。シリアだ。はっとして肩にある金色の光に目をやる。

〈彼は『樹』の中に入ったの。そして……みんなを閉じこめていた『網』を破ってしまった〉

『網』──それはシリアが造り上げ、二百年もの間『虫』達が世界に解き放たれるのを封じていたという縛めだ。それが破られたということは……。

「じゃあ……」

〈そう。今みんなは世界に溢れようとしている〉 

悲しげな彼女の言葉に愕然とする。『虫』が……子供達の怨念が解放されてしまった。今このとき、大陸のあちこちで灰色の怪物の群れが現れているのだ。そし て彼らは容赦のない殺戮をはじめる。自分が守ろうとした者達を含むすべての人々に。

「オレは……」後の言葉が続かない。

滅びを防ぐことができなかった。自分の詰めが甘かったばかりに、最後の最後でシリオスは目的を遂げてしまったのだ。自分の努力を、それ以上の仲間達の努力 を、こんな形であっけなく無駄にしてしまった。疲労に重なる絶望に、情けなさと悔しさに、冷えきった身体がさらに冷えていくような気がした。

〈ちがうわ。まだ終わりじゃない〉

少女の声。イノはうつむきそうになった顔を上げた。

「止められるのか?」

〈うん。あなたにならできる〉

シリアがしっかりと答える。まだ可能性はある──ならば、ためらっている暇などない。

「わかった。オレはどうすればいい?」

〈あの人のように『樹』の中に入るの〉

イノはシリオスの消えた跡に目をやった。

〈あの人は、自分の憎しみを使うことで『樹』の中に導かれた〉

「オレにもそうしろと?」

〈いいえ。それではみんなのところに行ってしまうだけ。あなたはわたしのいる場所まで来ないといけない。大丈夫。その子がちゃんとあなたを導いてくれる〉

再び肩を見る。彼女の言葉に応えるように、金色の『虫』が光を放ちはじめた。

「イノ」

腕の中のラシェネが口を開いた。

「行って……シリアのところへ。わたしはここで待ってる」

彼女に強くうなずき。イノは立ち上がった。

今度こそ終わらせてみせる──

見守るラシェネに、この場にいないレアとスヴェン達に、守るべきすべての者達……そして自分自身に誓った。

〈まず『樹』に手を当てて〉

頭に響く少女の声に従い、剣を握っていない方の手で巨大な幹に触れる。

〈そして、あなたとわたしとの《繋がり》に気持ちを向けるの〉

静かに目を閉じた。大きく深呼吸する。

意識を集中させる。自身に触れている暖かさとやわらかさへ。シリアとの〈繋がり〉へ。わかる。はっきりとわかる。幹に当てた掌のずっと先にいる彼女の存在 が。

遠のいていく。頭上にざわめく葉ずれの音も。髪を静かになでている風も。後ろにいるラシェネとの〈繋がり〉も。

肩に乗っているぬくもりが大きくなったのを感じた。それは金色の『虫』──もう一人のシリアだ。

やがて揺らぎが起こった。寄せては引きながら。強弱をくり返しながら。音色のように。波のように。鼓動のように。

さらに大きくなった肩のぬくもりに、しだいに強くなっていく揺らぎに、何もかもが包まれていく。しかし恐怖はなかった。不安もない。あるのは不思議な心地 よさだけだ。

母親の腕に抱かれていたとき、赤ん坊の自分はこんなふうに感じていたんだろうか──ふとそう思った。母の記憶なんて一つもないけれど、そう思えた。

〈手を伸ばして〉

彼女の声が聞こえた。

呼んでいる。招いている。求めている。初めて耳にしたときと同じように。

手を思いえがく。生まれる光の手。伸びていく光の手。閉じた視界の闇の先へ。掌を当てている巨大な存在の奥へ。ずっとずっと自分を待ち続けていた少女の下 へ。

彼女もこちらへ手を伸ばしている。自分達だけの〈繋がり〉がそれを教えてくれる。

闇の中へ広げられた互いの指先が、先へ先へと進んでいく。

やがて触れあう指と指。優しく絡んだ光同士が伝えあう互いの存在。心と身体のすべてで感じる彼女。心と身体のすべてが奏でる喜び。寄りそうように、抱きし めるように、その暖かさとやわらかさをしっかり受けとめた。

強く。さらに強く。 

そしてイノは『樹』の中へ溶けこむように消えた。見送るラシェネと、金色の輝きの残滓だけをあとに。


*  *  * 


逃げまどう人間達の姿が見えていた。

殺されゆく人間達の悲鳴が聞こえていた。

数多の恐怖。絶望。それらを舌で味わうように感じ取ることができた。

縛めを解かれ、世界に放たれた巨大な〈力〉と溶けあった彼≠ヘ、この状況に満足していた。自分がどこまでも際限なく広がっていく開放感。それは、これま でに経験したことのない感覚だった。

これまで……これまで≠ニは何だろう?

ふと浮かんだ疑問。だが、それはすぐに消えた。どうでもいいことのように思えた。

今や大陸全土に広がりつつある黒い輝きが彼≠ノは見えていた。まるで植物の根が伸びていくのにそっくりだった。

そう……これも樹なのだ。本体である『樹』を中心として、途方もない規模に根を張りめぐらせた黒い輝きの大樹なのだ。

四方八方にある根を流れるように移動していくのは、星々のように小さなきらめきの数々だった。自由の身となった子供達だ。彼らは気に入った場所で動きを止 めると、灰色の怪物となって人間達の前に現れる。そして彼らをメチャクチャに壊していく。

子供達が外で行っている遊びのすべてを、彼≠ヘ好きなだけ見ることができた。その気になれば子供達を止めることも、別の場所に無理やり移動させてやるこ ともできる。それは強大な〈力〉を持つ彼≠フみにあたえられた特権だ。

見物できる舞台≠ヘ人間の数だけ存在していた。出演者は老若男女さまざま。それぞれが見事なまでに恐怖と絶望を演じきっている。死への苦痛に歌い上げる 断末魔の合唱もたいしたものだ。

そのうち、一つの舞台が彼≠フ注意を惹いた。

そこは大陸にある中で一番大きな都市だった。大きな門があり、迷路のような路地があり、内部がいくつもの壁に仕切られている。どこか見覚えのある気がし た。

フィスルナ──という言葉が彼≠フ意識の端に浮かぶ。しかし、それもすぐに消えてしまった。おそらく、どうでもよいことなのだろう。

大都市だけあって、災厄の規模は他の村や街とは比較にならない。次々と現れる灰色の怪物達のみならず、いたるところで火災まで起こっていた。それらの脅威 から逃げようとする人々で、街路はすっかり溢れかえっている。その中には果敢にも戦おうとしている者達の姿もあるが、誰が見ても勝ち目のないのはあきらか だった。

ときに鳥のように上空から、ときに人間達と同じ目線で、彼≠ヘしばらく大都市の狂乱ぶりを見物していた。この舞台が一番内容に富んでいる。飽きることは ない。

そんな彼≠フ楽しんでいる意識が伝わったのだろう、まだ怪物として外に出ていない子供達の思念が、こぞって大都市へと群がろうとした。もちろん、彼らも 楽しいことが大好きなのだ。

だが彼≠ヘそれを制した。子供達がこれ以上この都市に現れるようなことになれば、あっという間にすべての人間が死に絶えてしまう。それでは見せ物として の面白さも半減だ。楽しみを引き延ばすことも、また楽しみなのだから。

子供達の思念が不満げな様子を伝えてきた。しかし彼≠フ〈力〉には逆らえず、なおかつはっきりとした自我を持たないため、その状態は長続きしなかった。 すぐさま他に現れる場所を求めていく。

大都市からいったん注意をはなし、彼≠ヘ再び各地で行われている殺戮の模様をながめはじめた。阿鼻叫喚の中にあっても、それでもなお生き延びようとして いる人間達。その死に物狂いであがく様の、なんと醜いことか。

醜い──ふと、その言葉が引っかかった。

だしぬけに彼≠フ中に一つの光景が浮かぶ。

夕暮れ時の小さな村。グシャグシャに殺され積みかさなっている灰色の怪物達。その死骸の群れをながめているのは、脆弱なほどに幼い自分だ。

そんな自分の後ろには大勢の人間達がいた。誰も彼もが浮かべている恐怖と嫌悪の表情。それは怪物達の死骸に対するものではない。この自分に向けられたもの だった。

人々の口が動いている。わななく唇が「バケモノ」という言葉を形作っている。怯えきった瞳の数々が放っているのは、理解できないものに対する徹底的なまで の拒絶だ。

やがて人垣の中から一人の女性が前に進みでてきた。周りの人間達と同じく恐怖を浮かべた表情。震える手に握っているのは大きな石だ。

彼≠ヘその女性を知っている気がした。しかし思いだせなかった。

彼女の手から石が飛んだ。幼い自分の頭に響くゴツンという音。破れた皮膚の痛み。額に感じるねっとりとした暖かさ。

石はどんどん飛んでくる。大きなもの。小さなもの。身体に当たる痛み。言葉もどんどん飛んでくる。バケモノ。バケモノ。心に突きささる痛み。それらを自分 に投げつけてくるのは、目の前にいる人間達だ。

ああ。歪んでいく。瞳に流れこんでくる何か≠フ暖かさが、瞳からあふれる何か≠フ暖かさが、すべてを歪ませていく。夕焼けの空も。人々の顔も声も。全 部ぜんぶグチャグチャになっていく。

そして幼い自分が吠える。獣そのままに。歪みきった視界に映る、どこまでもどこまでも醜い世界へ──

そこで彼≠ヘ我に返った。だしぬけに浮かんだ光景は、だしぬけに消えてしまった。もう一度呼びだそうとしたがダメだった。

あの光景が何を意味するのかはわからない。しかし、それは彼≠フ中に置き土産のようにどす黒いものを残していった。

重く、冷たく、それでいて焼きつくすような何かを。

彼≠ヘ強く脈動した。声ならぬ声で咆哮する。自らを満たしている想い≠ぶちまけたいという抗しがたい欲求が襲ってきた。言うまでもなく、その相手は 目の前に広がっている醜い世界だ。

そうだ。なぜ思いつかなかったのだろう。自分が外の世界へ具現することを。そして自身の手ですべてを破壊してやるのだ。その方がただ見物しているよりも ずっと面白いではないか。

自分は子供達よりもはるかに強大な〈力〉を行使することができる。その自分が具現するのだ。それはいったいどんな姿≠ニなるのだろう。

だんだん楽しくなってきた。彼≠ヘさっそく自らが姿を現すにふさわしい場所を探しはじめる。手頃な場所がなければ、さっき見た大都市にするつもりだっ た。

そして見つけた。意外なことに、そこは『樹』のそびえているすぐ近くだった。いままで遠くはなれた場所ばかり見物していたため見落としていたのだ。

瓦礫と化した都市が見える。死んだようにうずくまった巨大な獣が見える。そして、困惑顔をしている鎧姿の人間達の中に、彼≠フ関心を惹くものが二人い た。

一人は立派な服を身にまとった初老の男。

もう一人は白い装いをした若く美しい娘。

あの二人を知っている気がする──生け贄を選ぶ理由はそれで十分だった。

こちらの興奮が伝わったのだろう。周りに子供達の思念が寄ってきた。もちろん、彼らも楽しいことが大好きなのだ。

今度は彼≠熕ァさなかった。楽しみを分かちあうことも、また楽しみなのだから。

はしゃぐ子供達と、彼≠フ狂喜の笑い声が溶けあう。

最高の気分だ。

さあ外にでよう。ぶち殺すために。ぶち壊すために。



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