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─二十六章  シリアの願い(3)─



「いったい何が……『虫』はどこへ消えたのだ?」

後ろからガルナークの声が聞こえた。周囲にいる兵士達も、彼と似たような言葉を交わしあっている。だが、はっきりと答えられる者は一人もいない。

レアは遠くにそびえる『樹』を見つめていた。さっき響いた巨大な鼓動と、『虫』達がいっせいに姿を消した原因が、あの大木にあることには確信が持てたものの、彼女自身にも詳しいことまではわからなかった。

何度も周りを見渡す。目で確認できるような異変はない。しかし、『虫』が攻めてきていたとき以上の不穏な空気だけは、はっきりと感じ取れる。まるで空と大地すべてが殺気だってしまったかのようだ。

ずっと存在し続けている背筋を凍らせる悪寒が、レアの脳裏に一人の男を連想させた。自らの狂気じみた欲望のために、人々を破滅に追いこもうとしている男の姿を。

この一連の現象──それは もしかしたら、あの男が目的を遂げてしまったことを意味するのでは? そして彼が勝利したというのならば、当然イノ達は……。

その考えにぞっとする。胸の内に滲みでようとする絶望。それはレアにとって、今周りに漂っている雰囲気よりなお冷たくおぞましかった。

そんなことはない。

レアは強く唇を引きしめた。イノは必ずやってくれる。自分は誰よりもそれを信じている。ついさっき、スヴェンにそう豪語したばかりではないか。

「『虫』はまた現れるかも知れないわ。移動するなら今のうちよ」

くだらない想像を払いのけるように、レアは周囲に向けて声を張りあげた。何にせよこのまま都市の中に突っ立っているのはまずい。再び『虫』が攻めてきたら、あっさりと包囲されてしまうだろう。

その言葉をきっかけに、レアの周りいる者達が我に返ったように反応した。あちこちで号令が飛び交い、群がっていた兵士がぞろぞろと移動をはじめる。彼らの中には、将軍のそばにいる見慣れない姿をした少女に対し、不思議そうな顔を向けてくる者もいた。

「わたし達も行きましょう」

そうスヴェン達を見る。彼らは無言でうなずいた。

これでいい──レアは内心で言い聞かせた。現状がどうであれ、自分達は生き延びるために行動するのみだ。それに、動いていた方が嫌なことを考えずにすむ。

歩きながらふり返れば、自分の後ろにガルナークの姿があった。うつむき憔悴しきった彼の居ずまいは、もはや何の力もない老人のように見えた。

こちらの視線に気づき相手が顔を上げる。叔父と目が合うのを避けるようにして、レアはすばやく前を向いた。

瞬間、足が止まった。

ぞくり、と全身に走った震え。

「どうした?」

様子に気づいたスヴェンが声をかけてくる。しかし、レアの耳には入らなかった。

誰かが自分を見つめている──肌で感じるぐらいにわかる。

周囲に目を走らせる。広がる瓦礫。その向こうにある建物の群れ。移動している兵士達。そして自分を気づかうように見ている仲間の姿。視界に映るものはそれだけだ。

だが、自分をながめている何か≠ェこの場にいることを、レアは疑わなかった。執拗に。貪欲に。その眼差しが放っているねっとりとした悪意が、鎖のように身体中へ巻きついているような気がする。

次の瞬間。

どん、という大砲にも似た轟きと同時に、遠くにある建物が崩壊する派手な音がした。驚きの叫びがいくつも上がる。レアはもちろん、すべての人間の視線が当然のごとくそちらに向けられる。

レアの目が限界まで開かれた。新たな瓦礫となった建物にのしかかり存在しているそれ≠ノ。

それ≠ヘ血の色をした肉塊だった。『虫』が出現するときに目にするものと同じような肉塊だ。しかしそれ≠ヘ周囲の建物よりも、横たわる『ギ・ガノア』 よりも巨大だった。大木じみた太い血管がその表面をおおい、鼓動にあわせて波打ち蠢いている様が、遠目からでもはっきりと確認できる。

絶句したまま、レアは凍りついたようにそれ≠見つめていた。とつぜん生まれたバカみたいに大きな肉塊に、まったくといっていいほど理性が追いつかない。

当然ながら、そんな状態でいるのは自分だけではなかった。スヴェン達も、軍の人間達も、この場にいるすべての者が呼吸をすることすら忘れ、目の前の光景を凝視することしかできていない。

そして、それ≠ヘ悠然と形を成しはじめていった。肉をつらぬく鈍い音とともに、下部から節のある無数の突起が飛びだし、大音響を立てて瓦礫と化した大地に根を下ろした。同様の器官が上部にも生まれ、宙をさぐるようにウネウネと動き回っている。

やがて肉塊の中央がひときわ大きな盛り上がりをみせて、塔のように高くそびえ立った。それは途中でしなやかに湾曲し、鎌首をもたげたヘビさながらに、その先端を硬直している人間達へと向ける。血の色をした全身が、灰色をした硬質な殻によってメキメキとおおわれていく。

それ≠フ形は誰にも表現しようのないものだった。大小無数の脚で我が身を支えている姿は、昆虫を寄せ集めたようにも、獣が群れているようにも、あるいは 人間がひしめいているようにも見える。その中心部にある胴は円錐形に膨らんでおり、数えきれないほどの触手がびっしりと周りに生えていた。甲殻と節とで構 成された触手の群れは、各個が意思を持っているかのように忙しなく身をくねらせている。

胴のさらに中央からは、一本の巨大な触手がずっと鎌首をもたげた姿勢を保っていた。あれがこの存在の頭部なのだろうか。少し膨らんだ先端が、何かの形を取ろうとしているのだけはわかる。

身体も心も麻痺したような人間達に見守られながら、もはや何と名づけていいのかすらわからないそれ≠フ誕生は終わりへと近づきつつあった。

「あれは……」

やがて鎌首の先端に現れたあるもの≠目にして愕然としたレアの耳に、ガルナークのかすれた声が聞こえた。

それは家のように巨大な人間の顔だった。ヘビのような首の先についている顔。髪も眉もない顔。皮膚のかわりに灰色の甲殻でおおわれている顔。

男の顔……この場にいる者全員が見知っている男≠フ顔。

兵士達の間にざわめきが広がる。目の前に君臨した禍々しいバケモノが、自分達が慕う英雄の顔≠持っていることが、彼らの混乱にさらに拍車をかけたようだ。

それ≠ェ目蓋を開く。現れたのは人間の瞳ではなかった。大きく見開かれた眼からのぞいているのは、ぎっしりと詰めこまれた卵を思わせる紅い瞳の群れだ。

長い首をゆっくりと動かしながら、巨大な顔が眼下にいる小さな人間達を睥睨する。王の……いや、神のごとき威厳を放ちながら。何百何千という瞳の埋めこまれた双眸で、特定の誰かを捜そうとでもするかのように。

そして、それ≠ヘ見つけた。

レアの心臓が止まる。

高みから一直線に自分に据えられている、おぞましい眼に。

かつて感じたことのない戦慄が、脳天から爪先までを駆けぬけていく。

それ≠ェ唇を歪める。理性など一カケラも感じさせない、悪意そのものの醜い笑みがそこに浮かんだ。

停止寸前の思考で、レアは、さっき自分を捉えていた何か≠フ正体にようやく思い至った。

狙いはわたしだ──閃光のように認めた事実。

「みんな、逃げて!」

絶叫に近い声が自分の口からほとばしった。それを皮切りに、周囲から思い出したように次々と悲鳴が上がった。

醜悪な笑顔を見せたまま、それ≠ェ地響きを立てて一歩を踏みだす。


*  *  *


最初に聞こえたのは、サラサラという草のそよぐ音だった。

髪と頬を撫でていく風。目蓋に感じる光のぬくもり。

イノは静かに目を開けた。

そこは草原だった。やわらかな日差しに照らされた草花が地平の彼方まで広がっている。頭上にあるのは、これまで見たことのないぐらいに澄みきった青い空だ。

自分を見下ろしてみる。身につけた黒い鎧。ボロボロに破れた袖から突きでた灰色の両手と、その片方に握りしめている剣。そして肩に止まっている小さな光。『樹』に触れたときそのままの自分がそこにいた。

イノは『樹』の中へと入った瞬間を思いだそうとした。〈繋がり〉へ伸ばした手に彼女を感じたこと。何もかもが溶けあうような感覚のあったこと……。だが、そこから先のことはよく覚えていなかった。

そのとき、肩の小さな『虫』が動いた。それは初めての羽ばたきを見せ、驚くイノの目の前に宝石のような金色のきらめきを宙に残しながら、踊るように草原を飛んでいく。

くるりと回り、跳びはね、まるでこちらを誘っているかのような相手の動きに、イノは自然と足を踏みだしていた。

小さな光の導く先には、なだらかな傾斜の丘があった。てっぺんに生えている一本の木。そして、その根元には一人の少女が座っているのが見える。

少女が差しのべた手に小さな輝きが止まる。「おかえり」と彼女が口にした言葉が風に乗って流れてきた。

イノは彼女の下へと登っていく。   

「ここまで来てくれて……ありがとう」

やがて近づいた自分を見上げて、少女が話しかけてきた。それはこれまでのように頭に響くものではなく、ちゃんと耳で聞くことのできた彼女の肉声だった。

年齢は十一、二歳ぐらい。木に背をあずけた姿勢のほっそりとした身体は、『樹』を模したのだろう紋章の織りこまれた白い長衣でつつまれている。肩まで伸びた柔らかそうな亜麻色の髪。そして、自分と同じ緑色をした瞳。

イノはしばらく相手を見つめた。こちらへ微笑を浮かべている少女の色白の顔は、造りこそあどけないものの、まるで疲れ切った老人のような印象を受ける。それは面立ちだけにとどまらず、彼女のすべてを影のようにおおっていた。

『樹の子供』として目覚めるきっかけとなった少女。

レア、そしてアシェル達と出会うきっかけとなった少女。

シリオスから、スヴェン達から離反するきっかけとなった少女。

多くの喜び、悲しみをあたえてくれた旅のきっかけとなった少女。

彼女との出会いが、イノにとってすべてのはじまりだった。

「わたしはシリア。あなたの名前は?」

少しはにかんだような相手の言葉。思えばお互いに名乗ったことなんてなかった。これまでずっと一緒にいたというのに。ずっと〈繋がって〉いたというのに。

「イノだ」

こちらも微笑みながら名前を告げると、シリアが嬉しそうな笑顔を返してきた。そのときの一瞬だけ、彼女の瞳は年相応の幼い輝きを見せた。

イノは再び彼女の姿を見つめる。人ならぬ〈力〉を持つとはいえ、こんなか弱そうな女の子が、二百年もの間たった一人で世界を護り続けてきたのだ。とても信じられなかった。

「ここが『樹』の中なのか?」

「そう。『樹』の中にある、『樹』の夢のカケラよ」

「夢のカケラ?」

たずねるイノに、シリアがうなずく。

「『樹』がずっと見続けていた夢。『樹』がずっと見るはずだった夢。ここはその夢の最後のカケラなの」

『樹』は己の見る夢を用いて世界を造りかえるために存在する──シリオスはそう言っていた。いま自分が見ている光景は、本来ならば『樹』によって生まれ変わるはずだった世界なのだ。

イノはあらためて辺りを見回した。どこまでもおだやかで美しい景色。少し意識すれば、そこに満ちている〈力〉が感じ取れた。光のように。波のように。ある いは言葉のように。草花の一本一本までにも行きわたるそれが、自身の存在そのものを優しく包んでいくかのようだ。すべての生命が一つに〈繋がって〉いると いう感覚。自分が世界の一部として存在しており、あたたかく迎え入れられているという確かな実感が、純粋なまでの喜びをおしげもなくもたらしてくる。

「本当なら、世界はこうなっていたのかもしれない。そして……わたし達はその中に生きていたのかもしれない。だけど『樹』の見る夢は変わってしまった。み んなの憎しみが変えてしまったの。みんなが外の世界を壊しつくしてしまわないかぎり……いいえ、もう二度と元にはもどらないかもしれない」

同じく風にそよぐ草花をながめながら、シリアが悲しげにつぶやいた。

「あの人は、わたしの『網』を破ってみんなを解き放ってしまった。わたしには、もうそれを止める〈力〉はないわ。今はこの場所を守るだけで精いっぱいなの。でも、それも長くは続かない」

「シリオスは……あいつは今どこにいるんだ?」

「もういない。みんなを自由にしたあと、あの人は広がっていく憎しみと一つになって消えてしまったわ」

「消えた……」

「あの人は憎しみだけの存在になったの。みんなと同じように……もう自分が誰なのかもわかっていない」

イノは複雑な思いで彼女の言葉を聞いていた。人にはない〈力〉を持って生まれてしまった男。それ故に、彼は自分を異質≠ニする世界に絶望し、破滅させようと狂気じみた願いを抱くようになってしまった。

そんな彼を阻止すべくここまでやってきた自分。しかし、イノにはわかっていた。シリオスのたどっていった道は、自身がたどっていたかもしれない道でもある のだと。あの男の過去にどのような悲惨な出来事があったかは知らないが、もし自分も同じような境遇の下に生きてきたとしたら、アシェルにではなく、彼に共 鳴していた可能性を否定することはできないのだ。

「今のあの人はみんなと一つになっている。怒りと憎しみにまかせるまま、この世界を好きなだけ壊してしまうことができる。あなたの大切な人達も、他の人達も、たくさんの人が死んでしまう。一番怖い……終わりがはじまっているの」 

少女は静かにイノを見上げた。

「わたしはその終わりを変えたい。『樹』の怖い夢が、世界を傷つけてしまうことのない終わりに。わたしは、ずっとそれを願ってきた」

「わかってる」

相手に強くうなずき返した。

「その願いは、オレや、外で戦っているみんなの願いでもあるんだ。だからこそ……ここまでやって来た」

シリアが微笑む。初めて目にしたときそのままの、悲しそうな瞳で。

彼女との出会いが、すべてのはじまりだった。

そして今彼女との出会いで、すべてが終わろうとしている。

「教えてくれ、シリア。オレ達の願いを叶えるために……オレが何をすればいいのかを」

しばらくの沈黙。交わる互いの瞳と〈繋がり〉。

「わたしに終わりをあたえてほしい」

やがて少女はいった。

眉をひそめたイノに、彼女はさらに続ける。

「わたしを殺してほしいの──あなたの手で」 



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