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─二十六章  シリアの願い(4)─



絶え間ない地響きと共に、悠々と迫ってくる巨大すぎる姿。

瓦礫の大地を荒々しく踏みしだく無数の脚。光さす空に生々しく蠢いている触手の群れ。逃げまどう人間を嘲笑する邪悪な顔。

圧倒的な大きさ。そして禍々しさ。それ≠ヘもはや人が立ち向かえる次元を超えた存在だった。ある者は生気を失ったかのごとく立ちつくし、ある者は悲鳴を 上げてその場から逃げだしていく。誰にもそれを止めることなどできない。もう『継承者』だとか、ただの兵士だとかいった立場は関係なかった。

「どうなってんだよ……なんだってんだよ、あれは!」

周囲の喧噪の中、ドレクが叫んだ。

「あれは──」

次の言葉を紡ぐことにすさまじい抵抗を感じながら、それでもレアは続けた。

「シリオスよ」

「シリオスだと……あのバケモノが?」

背後から、驚きと困惑の入り交じった声でガルナークがいった。

悠々と歩みを進めている異形のバケモノ。それ≠ェかつて英雄と呼ばれた男のなれの果てであることをレアは疑わなかった。いや、あの憎しみに満ちた姿こそが、彼が隠しつづけていた本当の姿なのだろう。

全身に走る悪寒が、震えが止められない。あれの放つ迫力に比べたら、自分達が倒した『ギ・ガノア』などは、それこそ子犬に等しい可愛いげのあるものに思えてしまう。

「だが、もしそうだとしたら、奴のあの姿は……」

スヴェンが口ごもる。その顔に浮かぶ焦りと、悔しさと、そして絶望と。彼にはわかっている。醜いバケモノと化した男の出現が意味するものを。

「彼は……」

今度は言葉の先が続かなかった。シリオス≠フ足下で倒壊する建物の派手な音が、わめきたてる兵士達の声が、レアの悲痛なつぶやきを飲みこんでいく。

世界を揺るがすような鼓動。『虫』達の消失と不気味な静寂。そして……眼前にあるシリオス≠フ姿。

あの男は目的を達したのだ。そして、いま彼の望み通りに世界は破滅へと歩みはじめている。巨大な顔に刻まれている笑みが、巨大な身体が響かせている地鳴りが、何よりもその事実をレアに突きつける。

終わった──その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、これまで自分を支えてきた力が身体から流れでていくのをレアは感じた。

「じゃあ……イノとあの嬢ちゃんは」

張りのない声でドレクがつぶやく。レアは力なく仲間達を見る。彼も、スヴェンも、カレノアも、勝利者であるシリオス≠見つめたまま、気概を失ってしまったように突っ立っているだけだ。

沈黙。周囲を満たす騒乱の中で、自分達だけを包んでいる静けさ。

イノとラシェネは止められなかった。あの男の目的を。世界の終わりを。

二人は敗れたのだ。あの男に。世界を包もうとする憎しみに。

互いに交わした約束は。初めてできた友達と、初めて好きになった男の子との約束は……。

果たされることなく破れてしまった。

『また一緒にお風呂に入ろう』

『また後で会おう』

そんなに難しい約束だったのだろうか? そんなに理不尽な約束だったのだろうか?

彼と交わした言葉。彼と交わした抱擁。彼と交わした唇。

あんな短いものが。あんな他愛もないものが。

あんなものが──最後だったなんて。

断続的に揺れる地面。そして、禍々しい形の影が自分達をおおう。

「ちくしょう」

スヴェンが歯ぎしりするのが聞こえた。それと共に、耳をつんざく大音を奏でて間近の瓦礫に巨大な脚が振り下ろされる。もうもうと上がる土煙。飛び散った小さな破片のいくつかが、うつむくレアの足下で乾いた音を立てた。

「わたしは……」

レアの唇から、かすれた声がもれた。

視線を上げる。目の前にそびえる山のような怪物の、高所から自分を見下ろしている男の顔へ。

「わたしは……」

頭上にある歪んだ笑み。父と母を殺されたあのとき、アシェルを殺されたあのとき、自分から大切なものを奪うたびに向けられてきた笑み。

今度も奪われようとしている。自分の命と……それ以上に大切な希望とを。

しょせん、何もかもをこの男に奪われるだけの運命だったのか? 喜びも、怒りも、悲しみも、この男に捧げるための供物でしかなかったのか? 自分はただそれだけのためにこの世界に生まれ、ただそれだけのために現実の中に存在し続けてきたのか?

「わたしは……」

巨大な眼窩にひしめく無数の紅い瞳。それを見つめるレアの青い瞳。

身体に入りこもうとする恐怖を、心に入りこもうとする絶望を、死にもの狂いで押し返す。両手を強く握りしめる。

「わたしは──そんなの認めない!」

叫んだ。残酷でありつづけようとする世界へ。無情のままでいようとする現実へ。

激情のおもむくまま、レアは勢いよく右腕をかかげた。握り手をつかむ指先の動きに呼応し、レマ・エレジオに青白い光が流れる。

終わらせない……こんな終わり方なんて絶対に許さない!

引き金をひく。何度も。放たれる『光の矢』が、立ちはだかるバケモノの巨大な脚を、胴を、高みにある顔を次々と撃ちぬく。灰色の甲殻に着弾して花開く青白い輝き達。だがそれは巨大すぎる標的に対して、あまりにも小さく儚いものだった。

それでもやみくもに攻撃し続ける少女を見つめ、シリオス≠フ醜悪な笑みが広がる。やがて彼の開いた唇の奥から、とほうもなく大きな声があふれだした。

それは幾万もの子供達の声だった。

どこまでも無邪気で楽しそうな笑い声だった。


*  *  *


「今……なんて言ったんだ?」

呆然とシリアを見下ろしたまま、イノはぽつりとたずねた。

「わたしに終わりを──死をあたえる。それが、イノがここでしなければならないことなの」

静かにイノを見上げたまま、シリアがはっきりとこたえる。

今度はたずね返さない。言葉の意味を理解しても、それを飲みこむことができない。

「あなたはもう知っていると思うけれど、本当のわたしはずっと昔に死んでいるの。『樹の子供』を怖がって憎んだ大勢の人達の手によって。お父さんも、お母さんも……わたしを守ろうとして死んじゃった」

そのときの様子を思いだしたのだろう。シリアは顔を伏せた。

「気がついたとき、わたしはここにいた。最初は自分が死んだってわからなかった。しばらくたってから、ここが『樹』の中なんだってわかったの。死んだはずのわたしの〈力〉は……〈繋がり〉を通して『樹』の〈力〉と一つに合わさったんだって」

彼女は『樹』と同化しているに等しいと、あの男は言っていた。

シリアはなおも話を続ける。

『樹』の〈力〉と溶けあったことで、彼女は様々な事実を得ることができたのだという。『樹』の存在する理由や、『樹の子供』が生まれてきた理由を。

そしてシリアは知った。自分と同じように殺された『樹の子供』達の〈力〉が『樹』に取りこまれ、その夢を少しずつ変質させようとしていることに。

それは怒りだった。人々へ──外の世界へ向けた激しい憎悪だった。

「わたしは、みんなを止めようとした。でも、わたしとちがって憎しみだけになっちゃったみんなに、もう言葉なんて届かなかった。だから、『網』を作って閉じこめたの。みんなが怖い夢になって、外に出ることができないように……」

それから、シリアのたった一人の戦いがはじまった。憎しみを外に出さないよう封じる日々が。しかし、しだいに数を増していく想い£Bを抑え続けることは、『樹』と一体になった彼女ですら困難だった。

そして、ついにシリアの縛めの一部を破ることに成功した想い£Bは、外の世界へ飛びだしていった。『虫』という災厄として。『楽園』──さらにはその先に暮らす人々へ。

「もう、わたしにはどうすることもできなかった。『網』を直しても、また別の場所を食い破ってみんなは外へ出て行く。そして、『虫』になった憎しみは人を殺して、人に殺されて、さらに強くなって『樹』の中に帰ってくる……」

つらそうに語るシリア。金色の輝きを包んでいる彼女の手。小さな小さな手。そんな手一つだけで、世界を喰らえるほどの憎悪を抑えるなんて、とうてい無理な話なのだ。それでも彼女は、『虫』がもたらした多くの人の死を悲しみ、自分の責任なのだと心を痛めている。

やるせなさがイノの胸の内にあふれる。自分自身を含め、外の世界の人々は『虫』との戦いに当然のごとくあけくれてきた。たった一人で世界を護り続ける少女の存在など知らず。自分達の行為が彼女をさらに苦しめ、世界を緩やかに破滅に導くものであるとも知らず。

「わたしには待つことしかできなかった。この残された夢のカケラの中で、わたしに終わりをくれる人を……」

そして、シリアはイノを見上げた。

「だからって……」うわずった声がでる。「どうして、オレが……」

「『樹』の夢の中心──つまり〈力〉の源を、わたしが持っているからよ」

彼女が片手を小さな胸に当てる。

「『樹』と一つになったとき、わたしはこの〈夢の中心〉を持つことになってしまったの。理由はわからないし、ものすごく大きな赤ちゃんを渡されたみたい で、最初は少し怖かった。でもそのおかげで、みんなを抑えることも、『半身』を造って外に送りだすことも、そして、この夢のカケラの中でみんなから自分を 守ることもできた」

『樹』は巨大な力を持った赤子──あの男はそうも言っていた。自身は高い知性を持たず、ただひたすらに夢を見続ける赤ん坊なのだと。その夢を憎しみという悪夢に脅かされてしまったため、自らの中に入ってきた少女に我が身をゆだねてしまったのだろうか。

「これがなくなれば『樹』は二度と夢を見れなくなる。〈力〉を失って……死んでしまう。でも、そうすることで、みんなが世界を壊すのを止めることができるわ」

たしかに大本である『樹』が死ねば、その〈力〉で具現化している『虫』達は消滅せざるをえないだろう。そして二度と世界に現れることはない。誰にでもわかる単純な解決法だ。誰にでもわかる──誰にでも。

「だけど……それじゃ」

「わたしも『樹』やみんなと一緒に消える。ずっと遠くへ行くの。でも、イノは大丈夫。ちゃんと外の世界に戻って、大切な人達とまた一緒になれる。あなたを 外へ送りとどけることが、この子の最後の役目だから。そして、イノは『樹の子供』ではなく普通の人として生きていけるわ。その腕だってきっと治るはずよ。 だから心配はいらないの」

「オレは……そんなことを聞いてるんじゃない」

黄金色の『虫』をなでながら、こちらを安心させるように語りかけるシリアに、イノは低いつぶやきをもらした。

「なんだよ……なんだよそれ……」

ようやくたどり着いた旅の終着点。ようやく明らかになった自分の果たすべき使命。

あとはそれを為すだけだ。そうすればすべてが終わる。ここまで一緒に旅してきたみんなの──レア、スヴェン、ドレク、カレノア、ラシェネの気持ちに報いることができる。大切な人に生きていて欲しい、という心からの自分の願いを叶えることができる。

シリアをこの手で殺すことで。

「なんだよ……それ」

動かない。動けない。呆けたみたいに同じ言葉を繰り返すことしかできない。

たった一人の女の子に死をあたえる。あっけないほどに簡単な最後の目的。だけど、こんなことのために長い旅をしてきたのか。こんなことのために死にもの狂いで戦ってきたのか。

こんなバカみたいな終わりのために。

「他にないのか?」

救いを求めるように少女を見る。

「終わらせ方なんて……他にだってあるはずだろ?」

相手は首を振った。悲しく、残酷なまでに。

「わたしが自分で死んじゃうと、その瞬間に〈夢の中心〉はみんなに奪われることになるわ。そうなれば、もう誰にも憎しみの広がりを止めることはできない。 わたしが〈夢の中心〉を持っているうちに……誰かが〈夢の中心〉ごとわたしを終わらせなければダメなの。だからこそ、外から来てくれる人を……あなたを待っていた」

「それが……シリアの願いなのか?」

彼女がうなずく。イノはたまらず片手で顔をおおった。堅く閉じたまぶたに感じる甲殻の冷たさ。しかし、それは心を静めるのに何の助けにもならなかった。

「ごめんなさい……」

耳にとどく少女の声。泣きそうなぐらい小さかった。

「今までに、このことをイノに話そうと思えば話せた。でも言えなかった。言えば……あなたは来てくれないと思ったから。最初に出会ったあのときに、〈繋がった〉あのときに……あなたが優しい人だって、わたしにはわかったから」

イノは返事をしなかった。顔をおおう手にさらに力をこめただけだ。

この最後の使命について、あえて黙っていたというシリアを責める気はなかった。相手の言うとおり、目的が彼女を手にかけることだと最初からわかっていたとしたら、『楽園』へ向かう決意なんて、世界が滅んだって固まることはなかっただろうから。

だってそうだろ? どんな理由が、どんな理屈が、たった一人で世界を護り続けてきた女の子を殺すなんて決意を生むんだ? わからない。わかりたくもない──

怒鳴りちらしたかった。シリアにではなく、自分達をこのような形でしか導けなかった何か≠ノ。メチャクチャにぶん殴ってやりたかった。神だとか、運命だとか……そういった名前で呼ばれている大きな何か≠。

それこそ永遠に叶わない願いなのは知っている。そして、自分はいま別の願いを叶えてあげるために、この場所に立っていることも知っている。

イノはまぶたを開いた。顔から外した手を、もう片方の手にある剣の柄にそえた。

シリアを見つめる。剣を頭上にかかげる。黒い刃の切っ先が、きれいな青空にそびえる。

震える。剣が。身体が。どうしようもなく。

少女の顔は穏やかだった。それどころか、こちらをいたわるような表情さえしている。

「ごめんなさい。イノにつらい思いをさせて……本当にごめんなさい」

ちがう。謝るのはシリアじゃない。彼女は──彼女だけは、この世界の誰にも謝る必要なんてない。 

「でも、つらいなんて思わなくていいの。本当のわたしは、ずっと昔に死んでいるから。ここにいるわたしは……『樹』の〈力〉で造られた夢なんだから」

そうだ。自分が殺すのはあくまでもシリアの幻影だ。彼女の声も、彼女の瞳も、彼女の小さな手も、何もかもが嘘っぱちだ。幽霊みたいなものだ。本物じゃない。気に病むことはない。シケットで悪党達を殺したときと同じようにやればいいだけだ。

息が荒げる。口がわななく。瞳の奥が熱くなる。

ちがう。このシリアがただの幽霊なら、いま感じているこの〈繋がり〉は何なんだ? この触れてくる暖かさとやわらかさは何なんだ? この伝えてくる優しさと悲しさは何なんだ?

滲む。視界が滲む。 

そうだ。夢でも幻でもない。目の前にいるのは本物以上に本物のシリア≠セ。痛すぎるほどにそれがわかる。だからこそ、初めて出会ったときから片時も彼女のことを忘れることができなくなった。だからこそ、金色の小さな彼女を肩にのせてずっと一緒に旅をしてきた。

定まらない。剣の狙いが定まらない。これまで自分が戦ってきた相手を思えば、笑えるぐらいあっけなく倒せるはずなのに。

お前はどうなんだ?──イノは黒い刃に問いかけた。お前の最後の相手は、目の前にいる女の子だぞ? ただ人とちがう〈力〉を持ったってだけの……やさしい女の子なんだぞ? 満足できるか? 納得できるか?

剣は応えない。金属の冷たい輝きだけを見せ、主に振り下ろされるを待っているだけだ。

どこまでもきれいで、どこまでも静かで、どこまでも穏やかで、どこまでも心地よい景色。

風にそよぐ木陰に対峙する二人の間を、ゆるやかな沈黙が流れる。

やがて。

剣をかかげるイノ腕がゆっくりと落ちた。次いで、剣そのものが草地に転がる。

「だめだ……」

膝を落とし、うなだれた顔から絞め殺されたような声がもれた。

「できない……できない……オレには……」

この女の子を殺してしまうことが。すべてを終わらせることが。

ここまで自分を信じ、手を貸してくれたスヴェン達に。 

我が身を傷つけてまで、自分を助けてくれたラシェネに。

唇を交わし、「また後で会おう」と約束したレアに。

なんて言おう。なんて謝ろう。

「イノ」

涙でぼやけた視界。地面についた両手の間に、やわらかそうな掌が現れた。

顔を上げたイノの前に、微笑みながら膝をかかえ、こちらへ片手を差し伸べているシリアがいた。

「手をだして」

「手?」

「うん」

情けない顔と声で問い返す自分に、少女は笑顔のままうなずく。亜麻色の髪が揺れ、彼女の肩にいる小さな光に柔らかそうに触れた。

イノは言われるがままに片手を差しだす。灰色の醜い手のひらに、やわらかい手が重なる。

そして──

──イノは見た。

クレナがいた。年配の男の手に引かれて、フィスルナの街路を大勢の人々と共に逃げていた。後ろから奏でられる『虫』達の殺戮の音色に怯えながら、 彼女はときおり強く目を閉じていた。あくまでも死に逆らおうとするその祈りの中に、自分の姿がえがかれているのをはっきりと感じ取った。

イジャとネリイがいた。若い娘達と一緒に、せまい小屋に立てこもっていた。外から入りこもうとする『虫』達を防ぐために必死で扉を抑えつけながら、彼は周りの娘達を励まそうと声の限りに叫んでいた。懸命なその意志の中に、自分の姿が描かれているのをはっきりと感じ取った。

ヤヘナとホルがいた。迫りくる『虫』達によって、隊商のみんなと一緒にシケットの高い通路の一角に追いつめられていた。しかし、彼女の視線は怪物にではな く、防壁の彼方に見える白い山脈へと向けられていた。落ち着いたその瞳の中に、自分の姿が描かれているのをはっきりと感じ取った。

ラシェネがいた。武器を失い、傷だらけの身体を巨大な根にあずけたまま、ついに『樹』の間近にまで現れはじめた『虫』達をながめていた。でも、彼らを見つ める顔は不敵にも微笑んでいた。気丈な笑みを支えるその想いの中に、自分の姿がえがかれているのをはっきりと感じ取った。

みんながいた。みんなの中に自分がいた。

そして──



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