前にもどるもくじへ



─終章  大いなる夢の終わりに─



残忍な悦びをこめて自分をながめている巨大な瞳が、顔に巻きついてきた触手で見えなくなった。

闇に閉ざされた視界──レアにわかるのは、かろうじて触手と口との隙間からもらす自分の呼吸する音と、全身のいたる所を締めつけられている痛みだけだ。

強弱をくり返し、身体を責め苛んでいく触手の群れは、まるで自分から最後の一滴まで苦痛をしぼり取ろうとするかのようだった。いや、事実そうなのだろう。この悪趣味なバケモノは、あっさり殺した叔父とはちがう方法で、じわりじわりと自分をなぶり殺しにするつもりなのだ。

永遠に続きそうな責め苦に音を上げそうになる心を、レアは必死で奮い立たせる。今は醜いバケモノとなってしまった目の前の男に、かつて同じように〈力〉で攻められた自分と、今ここにいる自分とを重ねながら。

今度は情けない悲鳴を上げるわけにはいかない。抵抗すらできないのは同じだけれど、あのときのように恐怖と絶望に屈するわけにはいかない。

今の自分にはイノがいる。さっきのように声も聞こえないし、存在も感じないけど、それでもちゃんと心の中にいる。彼を信じるという自分にできる唯一のことを精いっぱいやるためには、それだけで十分だった。

顔に巻きついた触手が、少しずつ締めつけを増してくる。ぞっとするほど冷たく硬い甲殻に目も耳もふさがれた中、みしみしという音と激痛が、頭蓋にひびく。

同時に、レアの全身を強烈な圧迫が襲った。どれほど痛めつけても耐え続けている生け贄に飽きて、バケモノがついに自分にとどめを刺そうとしているのがわかった。

まだだ!──さらなる激痛に、遠くへ逃げだそうとしている意識にしがみつく。震える唇をこじあけ、潰されそうになっている肺へと懸命に空気を吸いこんだ。

声を。声を。

悲鳴ではなく。嘆きでもなく。ただ彼の名前を口にするだけの声を。

救いではなく。別れでもなく。ただ好きだから口にするだけの声を。

それが……それだけが……。

ふと、圧迫が弱まった。

だしぬけに解放された肺へ飛びこんできた空気に、レアはむせて咳きこんでしまう。頭を締めつけていた触手がずるりと離れていった。

どうしたのだろう? とどめを刺すのではなかったのか。それとも、まだ自分を痛めつける気なのか。

涙にかすんだ目で、レアは目の前にあるバケモノの顔をにらむ。だが、相手は自分を見てはいなかった。ニタニタした笑いは消え、これまでとはうって変わった呆けた ような表情をして、捕らえている生け贄のはるか背後に異形の瞳を向けていた。まるでそこにある何かに、いきなり声をかけられたみたいに。

気づけば、子供達の笑い声も止んでいた。

いまだズキズキしている頭の痛みに顔をしかめ、レアは首をめぐらせる。そして、視界に巨大な『樹』の姿が入った瞬間、身体を包んでいた圧力が完全になくなった。

すっかり疲弊してしまい事態に追いつけない意識が、バカバカしいほどの鈍さで自分が地面へ落下しているのだと教えてくれた。

まずい──と思ったときには、もう衝撃を感じていた。思わず目を閉じてしまう。しかし、まだ身体が浮いているような感覚がする。

おそるおそる開けた瞳に、こちらを見下ろすカレノアの安堵した表情があった。彼が自分を受け止めてくれたのだと、のろまな思考が教えてくれた。

「レア!」スヴェンとドレクが口々に叫びながら駆け寄ってくる。無事をたしかめてくる二人も、自分を抱きかかえているカレノアも傷だらけだった。まだ周りに残っていた兵士達の中にも、同じような姿をしている者がいた。

無駄とわかっていても、みんな自分を助けようと戦ってくれていたのだ。さっきからグズグズしっぱなしの脳裏でも、それだけはすぐに理解できた。胸の奥とまぶたの奥とが熱くなった。

「奴は……どうしたっていうんだ?」

大丈夫、とレアが弱々しくうなずいて見せた後、ひとまず安心した表情から真顔にもどったスヴェンが頭上をあおぐ。そこには、いまだぼんやりと『樹』を見つめたままのシリオス≠フ顔があった。

そのとき、声≠ェ上がった。

まるで世界に轟くように大きく。鼓膜ではなく存在そのものを揺さぶりかけてくる悲痛な響きをもって。

泣き声>氛气激Aはそう思った。

バケモノが顔をのけぞらせる。泣き声≠ノ呼応するかのごとく、苦痛に歪んだ口から絶叫をほとばしらせる。

幾万もの子供達の悲鳴が、何者かの泣き叫ぶ声と唱和していく。

「今度は、なんだってんだよ!」

『楽園』に満ちる痛々しい合唱に負けじとドレクが怒鳴ったとき、今度は足下が大きく波打った。その場にいるすべての人間が、激しく揺れる地面に耐えきれず 瓦礫に投げだされる。カレノアに抱きかかえられていたレアも彼ごと倒れこみ、たくましい腕の中から放りだされてしまった。

なおも容赦なく突き上げてくる大地に、レアの身体があっけなく宙に浮いた。今度は受け止めてくれる者もなく、ぶざまな格好で瓦礫にたたきつけられてしまう。

激しく打った腰の痛みに顔をしかめながら、レアは必死の思いで支えになりそうな場所にしがみついた。周囲には、みんなが同じようにしてこの状況を耐えぬこうとしている姿が見える。

絶え間なく上下する視界の中に、遠くに残っていた建物の群れが次々と倒壊していくのが見えた。その派手すぎる騒音が、いまだ響き渡る悲鳴の合唱に参加す る。経験したことのないやかましさ──瓦礫にしがみつく腕では耳をふさぐこともできず、今にも鼓膜が破れてしまいそうだ。

やがて、絶叫し続けていたシリオス≠ノ変化が現れた。巨大な姿が地面に溶けていくかのように、みるみる形を失っていくのだ。消えゆくことに最後まで抵抗していた彼の顔は、完全に崩れ去る最後の一瞬まで、苦痛とそれ以上の憎しみを世界に放ち続けていた。

そして──すべてが収まった。

何者かの泣き声≠焉A子供達の絶叫も、地震も、何事もなかったかのようにピタリと止んだ。それがあまりにも唐突だったので、誰もが終わったことに気づくまで時間がかかった。

レアは辺りを見渡した。この場所がすでに瓦礫だったせいだろう。地震で倒壊した建物に巻きこまれることもなく、仲間達も居残っていた兵士達も無事な様子だった。もっとも、みんな自分同様ぶざまな姿勢でいることに変わりはないが。

何かが変わっていた。静けさではなく。崩壊した都市の光景ではなく。

消えている──レアにはそれがわかった。

さっきまでの殺伐とした空気が。世界そのものを満たしていたような悪意が。きれいさっぱりなくなっている。

「頼むから……これ以上は……勘弁してくれ」

少し離れた位置で、大の字に横たわっていたドレクが愚痴っぽくつぶやいた。

「大丈夫よ。もう……」

レアは静かに答えた。遠くを見つめる瞳には、『楽園』を襲った大地震の中で、唯一形をくずさないままそびえている『樹』の姿が映っていた。

さっきの泣き声>氛氓ワるで世界に訴えるかのような痛ましい叫びを上げたのが何者だったのかを、レアは理解していた。

そして、この静けさをもたらしたのが誰≠ナあるのかも。

再び胸とまぶたの奥が熱くなった。どうしようもなくこみあげてくる感情が、形となって外へ溢れたいと、これまでにない大声で訴えてくる。

でも、レアに出してやる気はなかった。自分には、まだやることが残っているのだから。

立ち上がろうとして尻もちをついた。さんざん酷使した上にバケモノによって痛めつけられた身体には、情けないぐらい力が入らなかった。これから一番簡単で……一番大事なことをしなきゃならないというのに。

なんとか立とうと悪戦苦闘している自分の肩に、ポンと手がおかれた。

「無理するな」

笑みを浮かべたスヴェンがいた。こちらと同じように、すべてを理解した彼の瞳には、ほんの少しだけ涙が光っていた。

またもやレアの身体は宙に浮いた。カレノアに抱きかかえられたのだ。

「俺ですまないが……しばらく辛抱してほしい」

岩のような彼の顔も笑っている。

「贅沢はなしだぜ。後であいつに好きなだけ抱いてもらえよ。な?」

ドレクもニヤニヤ笑いながら、こっちを見る。

レアは黙りこくった。恥ずかしさと情けなさの混じった気分。でもそれ以上に嬉しかった。

彼らの好意を素直に受けることに決める。そのさい、優しい大男へは微笑みを返し、どこまでも品のないヒゲ顔には舌をだしてやった。

「さて」

スヴェンがまとめるように言って『樹』を見る。

「アイツのところへ行こうか」


*  *  *


どのぐらいそうしていたのかはわからない。

身体をなでていく風。背中に感じる硬い感触。

目を開く。視界一面を埋めつくしている緑の葉達。

イノは、自分が巨大な根の上に横たわっているのを知った。

もどってきた──そうぼんやりと理解し、ゆっくりと身体を起こした。

辺りを見まわす。そこには『樹』の中へ入る前とはちがう光景が広がっていた。周囲にあった防壁も崩れ、さらにはその先に立ち並んでいた建物も崩れ、美しい景観をすっかり失った都市の姿が。

ふと、手の中にあった感触がないことに気づく。

シリアを終わらせた剣の感触が。

心からの喜びを見せていた少女へ刃を振りおろしたことは、はっきりと覚えている。その瞬間、彼女の肩にいた金色の光がまばゆく自分をつつんだことも覚えている。そして──

黄金色の小さな『虫』は……シリアは、ちゃんと自分を外の世界まで送りとどけてくれたのだ。

イノは慌てて視線をめぐらせた。探すのは剣なんかじゃない。彼女≠セ。自分のすべてを変えてくれた二人の少女の一人だ。

シリアはすぐ近くにいた。

でも、それはもう以前の姿ではなかった。イノの目に映ったのは、色と輝きをなくし灰色に変わってしまったちっぽけな『虫』だった。

そして──何も感じないのに気づいた。

世界を飲みこもうとしていた憎しみの〈力〉が。自分へと語りかけていた『樹』の声が。シリアとの〈繋がり〉が。黒い輝きの〈武器〉を呼ぶ内なる扉が……何もかもがなくなっている。今まで当たり前のようにそこにあったものが、全部ぜんぶ消え去っている。

目と耳をふさがれたのに近い不安がイノを襲った。大切なものを失ってしまったという焦りの気持ちが、どうしようもなくわき上がってきた。

身を乗りだす。輝きを失った彼女≠ヨ手を伸ばす。そこになくしたものがあるような気がして。触れれば、またそれが戻ってくるような気がして。

おそるおそる伸ばしている自分の手。それは醜い甲殻に包まれたものではなく、ちゃんとした人間の手だった。黒ずんだアザにこそおおわれていたが、生まれ持った自分本来の手だった。

もうわかっていた。

求めるものはどこにもないことを。なくしたものは二度と戻らないことを。

それでも、彼女≠ヨ触れたいという気持ちは変わらなかった。どうしても、そうせずにはいられなかった。なぜなら、これまでずっと一緒にいた相手なのだから。ずっと強く結ばれていた相手なのだから。

そしてイノの指先が当たった瞬間、彼女≠ヘ乾いた音を立てて崩れ去った。何一つ残さず、灰色の砂になって風に流れていった。それが「さよなら」であるとも理解できず、散っていったその姿をしばらく呆けたように見つめていた。

視線を上げる。空に広がる緑の葉が変化していた。しだいに茶色く枯れていく。やがてすっかり色を失った葉達は、ひらひらと『楽園』全土に降りそそぐように舞い散りはじめた。

『樹』は死んだ。世界を生まれ変わらせる巨大な存在は、その〈力〉の中心を持つシリアが消滅したのと同時に役目を終えた。金色の光に包まれてこの場所まで運ばれる途中、何者かの泣き声≠聞いたのをイノは思いだす。あれは『樹』が上げたものだったのだ。

『樹』は死んだ。もう二度と夢を見ることはない。その具現である『虫』達も、今頃は世界から一匹残らず消え去っているだろう。この先、憎しみの悪夢が人々を襲うことはなくなったのだ。

『樹』は死んだ。長い間この大陸で続いていた戦争は──この大陸にもたらされた多くの悲しみは終わった。自分と仲間達の目的は果たされた。亡き父の想いだって叶えてあげられたのだ。

それなのに。それなのに……。

ちゃんとやるべきことをやり遂げたというのに、勝利の喜びも、達成感もわいてこない。バカみたいにぼんやりとした頭の中にあるのは、さっきまで話し、触れ、〈繋がって〉いた一人の少女の笑顔だけだ。

シリアを殺してしまった。

それが彼女の願いであり、みんなを守るために必要なことであったとしても、イノはそのことに抱えきれないほどの悲しさと罪の意識とを感じずにはいられなかった。腕をふくむ身体中に刻まれた醜いアザは、彼女と『樹』を殺した自分への烙印のように思えた。

どのぐらいそうしていたのかはわからない。

やがてイノはゆっくりと立ち上がった。虚しい心を、失ったものへの想いを引きずるようにして歩きだす。大切なものをなくしても守りたかった大切な者達を……みんなを探しに行くために。

命を失い、張りつくような感触のしなくなった根の上を歩く。全身から何もかもが抜けでたような感覚も手伝って、足下がなかなかおぼつかない。

ようやく巨大な幹をまわりこんだところに、ボロボロになった青と白の人姿が見えた。彼女は根にもたれたままの姿勢で、眠るように目を閉じている様子だ。

「ラシェネ?」

そばにしゃがみこみ呼びかけてみる。今はもう彼女との間にも〈繋がり〉は存在していない。だから、ぴくりとも動かなかった彼女が目蓋を開き、こちらに笑みを浮かべたときは心の底から安堵した。

「『終の者』の役目を、ちゃんと果たしてきたよ」

努めて明るく告げた自分を見て、ラシェネの笑顔に悲しみの色がよぎった。彼女も理解しているのだと知った。こちらが『樹』の中で何を為してきたのかを。

ラシェネが静かにうなずく。まっすぐ向けてくる瞳に、優しさといたわりを見せて。こちらの胸にある重いものを、自身も引き受けようとするかのように。人にはない感覚がなくたって、それぐらいはわかった。

「イノの手……」

やがて彼女が伸ばしてきた手が、アザだらけの腕に触れた。

「もとにもどってよかった」

にっこりと笑った相手につられるように、イノの顔にも自然と笑みが浮かんだ。心の内にあった虚しさが、少しずつ暖かい何かで埋められていくのを感じながら。

「まあ、きれいさっぱりってわけじゃないけど……前よりはぜんぜんマシになったかな」

彼女の手を取って続けた。

「さあ。今度はラシェネの怪我を治さなきゃ。みんなを探して里までもどろう。またオレにおぶさりなよ」

ところが、相手は首を振った。

「無理しちゃだめだって。ラシェネの方が、オレよりも怪我はひどいんだから」

「ちがうちがう。わたしがイノの手を使っちゃうのは、まだダメ」

「どういうこと?」

それには答えず、彼女はイノの背後を指差してみせた。

イノはふり返った。その瞳に、眼下にある崩れ去った防壁から草地に降り立った人影が飛びこんできた。

黒い姿が三人と。その中の大柄な影に抱えられている白い姿と。

見慣れた姿が、ちょっと前に別れた姿が、救いたいと想った姿が、会いたいと願った姿が──こちらをしっかりと見つめて『樹』の根を歩いてくる。

誰も欠けていない。スヴェンも、ドレクも、カレノアも、そして。

そして……。

わきあがる感情が、ぬくもりが、心の虚しさをさらに埋めていく。

「わかった?」

イノが呆然と見つめ続けている白い姿に目をやって、ラシェネがすました顔でいった。


*  *  *


「やれやれ。結局、俺がお前を迎えに行くってのだけは、最後まで変わらなかったな」

根の丘を上りこちらまでたどり着いたとたん、スヴェンがイノを見てニヤリと笑った。

「これでも、こっちから迎えにいこうとした寸前だったんだけどさ」

いつもの皮肉に、肩をすくめていつもの言い訳を返してみた。だけど、以前のように頭をどつかれたりはしなかった。なんだか肩すかしをくらったような気分だ。

「お前さんも、そっちの嬢ちゃんも、ずいぶんな目にあったみてえだな。おい?」

「まあね。でも、それはお互いさまじゃない?」

いつものように歯をむきだして笑いかけてくる……と思いきや、半べそをかいているような顔のドレクに、そう笑い返した。

「あんたも無事そうでよかったよ」

そのままカレノアに声をかけてみる。鋼の男は「この通りだ」と、これまためずらしく反応してくれた。

そして、イノは大男の腕が地面に下ろした人物に視線を向けた。さっきからじっと自分を見つめている青い瞳へ。

「レア」

黙って突っ立っている彼女にイノは歩み寄った。

あらためてレアをながめる。黒い兜を失いあらわになった髪の毛もふくめ、白い姿のところどころはホコリだの血だので見る影もなく汚れきっていた。もっとも、その血痕は彼女自身のものではなさそうだ。

「大丈夫?」

それでも、念のためたずねる。

「うん」

やたらと硬い表情から、ぽつりと、でもしっかりした声が返ってきた。

ほっとすると同時にこみあげてくる喜びの光が。

心の虚しさに注がれていく輝きが。

どんどん溢れていく。ぜんぜん止まらない。

「ちょっと別れただけなのに──」

わきあがる想いに流されるまま、イノはさらに口を開く。

「ずいぶんひどい格好になっちゃったんだな。兜も剣もなくしたみたいだし」

「うん」

「まあ……オレも人のことは言えないんだけどさ」

少しおどけながら、イノは自分の破れた服やらアザだらけの腕やらを指してみせた。それでも、相手は「うん」と短い感想を言っただけだ。

「でも、顔はレアが一番汚れてるな。なんだか大変なことになってる」

「うん」

「ほんとにひどいよ? 鏡があれば見せてあげたいぐらい」

「うん」

「どうしたのさ? さっきから『うん』しか言ってないけど」

からかうような口調で笑いかけながら、イノは手を伸ばし、レアの顔についている汚れをぬぐいだした。このままではせっかくのきれいな顔が台無しだ。もっとも、一番の理由は彼女に触れたかっただけなのだが。

もとにもどった両手に感じる彼女の肌。やわらかく。あたたかく。

レアがいる。目の前にちゃんといる。話しかけることができて、声を聞くことができて、手で触れることだってできる。そんな当たり前のことが。そんな単純なことが。こんなにも嬉しいだなんて──

「ほんとに大丈夫?」

イノに顔をぬぐわれるままレアが返した言葉は、相変わらずの「うん」だった。でも、その声は震えてかすれていた。青い瞳からこぼれだした涙が、イノの指先を濡らしていく。

「……終わったの?」

やがて、しゃっくりのような声音で、一言だけ彼女がたずねてきた。

イノはしばらくレアを見つめた。だいぶ汚れを落としたはずの彼女の顔が、すっかりぼやけて歪んでいる。知らないうちに自分の目からも涙があふれていたのだと知った。

「終わったよ」

うなずきながら静かに告げた。彼女に、みんなに、自分自身に、そしてこの世界のすべてに向けるように。

くしゃくしゃになったレアの顔が、イノの胸に飛びこんできた。むせび泣く彼女の背中に、優しく手をまわして抱きしめる。どこまでも。どこまでもどこまでも──この腕の中のぬくもりを、この心の中のぬくもりを、もう二度と離すことのないように、どこまでも強く。


*  *  *


約束通りの再会を果たしたイノ達は、しばらくの間『樹』の根の上に座りこみ、それぞれが疲れきった身体を休めていた。

やがてイノは口を開き、『樹』の中での出来事を少しずつ話しはじめた。

たずねられたわけでもないし、自分が何を為したのかを口にするのはつらかった。だけど、ここにいるみんなにだけは、シリアという少女のことを知っていても らいたかった。『樹の子供』だとか、世界を守ったとかじゃなく、ただ優しい心をもっていただけの一人の女の子≠ニしての彼女を。

みんなは黙って自分の言葉を聞いていてくれた。話している途中も、終わった後も、誰も口をはさまなかった。

静かな時間が流れた。黄昏に変わりはじめた空をぼんやりとながめていたイノは、周囲の気温がしだいに肌寒くなってきたことに気づいた。『樹』が死んだことで、その影響を受けていた気候が本来のものに戻りつつあるのだ。

冷えていく空気は、目の前に広がる崩壊した都市をさらに寂しげに見せるかのようだった。永遠に失われてしまった『楽園』──いずれそれは、周囲にそびえる山脈と同じように雪に埋もれてしまうのだろう。

頭上からは、いまだに枯れ葉が舞い降りてきている。天をおおうかのごとく繁っていた『樹』の葉──それらがすべて散ってしまうまでには、どのぐらいの時間がかかるのだろうか。

「さて」

スヴェンが立ち上がった。

「俺達はそろそろ行くぞ」

「行くってどこへ?」

彼に続いて立ち上がったドレクとカレノアを見上げて、イノはたずねた。

スヴェンは黙って瓦礫の都市を指した。そこには、遠くで豆粒のように動いている人影がある。生き残ったセラーダ軍の兵士達だ。

「連中がフィスルナに帰るのに手を貸してくるのさ。まだまだ混乱しているようだし、放っておくわけにもいかんだろ」

「そりゃそうだけど……」

予期していなかった『ギ・ガノア』の暴走にはじまり、『楽園』での人知を超えた出来事の数々に、事情を知らない軍がその機能を失い乱れまくってしまうのは 当然だろう。なおかつ総指揮官であるガルナーク将軍は死亡し、彼の片腕といわれた英雄シリオスも行方不明なのだ。自分達以上に大変な思いをしているのは、 彼らの方かもしれない。

「軍が撤退したあと、スヴェン達はどうするのさ?」

「そりゃあ、そのまま連中とフィスルナに行くに決まってるだろ。俺達のもどる場所は、あそこしかないんだからな。『楽園』も『虫』もなくなって、セラーダがこれからどうなるかはわからんが……。まあ、俺達はなんとかやっていくさ」

何をあたり前のことを、と言わんばかりのスヴェン。たしかにその通りだ。彼らにとってフィスルナは故郷なのだから。

いや、イノ自身にとってもそうだ。シリオスがいなくなり、反逆者としての汚名も自然と消えた以上、セラーダに帰ることには何の問題もない。クレナをはじめ待ってくれている人だっている。だけど──

「まさか、この期におよんで『一緒に行く』なんてバカは言わないよな?」

こちらが口を開く前に、スヴェンが眉を上げて笑みを見せる。彼の視線の先には、ラシェネに付きそうようにして座っているレアの姿がある。

「もちろん。言わないさ」

イノは肩をすくめて苦笑した。立ち上がり、三人と向かいあった。

「いつか必ず会いに行くよ。フィスルナへ」

「どうだか。お前から来てくれたことなんて、一度もないんだがな」 

ちゃんと真面目に言ったにもかかわらず、スヴェンには笑われてしまった。

「今度こそ来いよ。クレナには俺からそう説明しておくからな。彼女、お前に会えなくなって寂しがるだろうから」

「オレがいなくたってクレナは大丈夫さ。スヴェンが一緒になってやればいいんだから」 

「ぬかせ。お前こそレアに愛想つかされないようにしろ」

「相手と一緒にすらなってないスヴェンは、それ以前の問題じゃないか。こっちみたく上手くいくことを祈ってるよ」

ちゃんと真面目に忠告したにもかかわらず、スヴェンはやけに苦々しい顔で黙りこんでしまった。これ以上何か言うと、まちがいなく頭をどつかれそうな気配だ。それぐらいはわかる。

ふと、イノの前に大きな手が差しだされた。

「お前と一緒に戦ったことは俺の誇りだ。また会えるのを楽しみにしている」

笑みを浮かべているカレノアがいた。もはやめずらしいどころではない。まさか、この鋼の男から「誇り」だとか「楽しみ」だとか言われる日がくるなんて想像もしていなかったイノだ。

「ありがとう。オレも楽しみにしてるよ」

そう笑い手を差しのべる。相手はしっかりと握り返してくれた。  

そのとき「まあ……達者でな」と、ものすごく小さな声がした。

「あれ? どうしたってのさ」

ちょっと離れた場所に突っ立っているドレクを見て、イノは首をかしげた。すっかり歪んでしまった兜を目深にかぶっているため、顔はヒゲ以外の部分がまった く 見えない。

「ひょっとして……泣いてるんじゃないの?」

全員が彼に注目する中、レアが意地悪げな声でいった。

「ちげえよ!」

吠えるドレク。しかし、どう見ても泣いていた。

「ムキにならなくてもいいじゃない。歳≠ネんだし」

「うるせえよ! そっちだって、さっきまでワアワア泣いてやがったくせに」

「わたしはいいのよ。なにせ若い娘ですから」

「はん! あんなバケモンみたいな犬を一人でぶちのめしておいてよく言うぜ。イノ、お前さんもぶっ倒されねえよう気をつけな」

「ちょっと──何を言いだすのよ。ヒゲのくせして!」

静寂を破り、枯れ葉の舞い散る『樹』の下で、盛大に言い争いをはじめた二人。せっかくの別れの挨拶だというのに。

『止めないの?』というイノの視線に、『放っとけ』とスヴェンは心底うんざりした顔で返す。もちろん、鋼の男はまったく関係のない方を向いて知らん顔だ。

やがて、ラシェネが痛みに顔をしかめながらも愉快げに笑いだした。つられてイノが笑いはじめ、スヴェンとカレノアがその後に続き、最後には口喧嘩をしていたレアとドレクまでもが加わった。

みんなが笑っていた。これ以上ないぐらい散々な目にあって、ここで別れて、次はいつ会えるのかわからないというのに、いつものようにくだらないことで腹を抱えて笑っていた。

これこそが自分の守りたかったものだ。イノはあらためてそう思った。守ることができて本当によかったと。きっと彼女≠烽サう思ってくれているのだろう。遠く遠くへ行ってしまったシリアも。

ふと肩を見る。いつもの輝きと〈繋がり〉がもうそこにはなく、一抹の寂しさを感じてしまうだけだとわかってはいても、この何気ない動作はこれから先もずっとやめられそうになかった。

そして。

スヴェン達を見送ったあと、イノはラシェネを背負い、レアと一緒にいまだ葉の降り続ける『樹』の根をゆっくりと下りはじめた。

遠ざかっていく『樹』を振り返ったのは一度だけだった。そこに楽しげな子供達の声を聞いた気がして。耳ではなく、自分の中にあるずっとずっと奥深いどこかで。

もちろん何もなかった。感じなかった。瞳に映ったものは、廃墟の都市と黄昏の空を背景にした死にゆく巨木の姿だけだった。

どうしたの? という眼差しで、となりにいるレアが問いかけてきた。イノは彼女に微笑しながら首を振ると、再び足を踏みだした。

背中に感じるラシェネの心地よい重み。耳に残っているスヴェン達のくれた言葉と笑い声。心にえがきだすクレナ達みんなの姿。そして、自分の腕にしっかりと添えられているレアの手が伝えてくる暖かさと想い──

大いなる夢の終わりの中を、イノはひたすら歩んでいく。

この世界に残された、大切な〈繋がり〉と共に。



前にもどるもくじへ




inserted by FC2 system