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  ─序章  父の死─




父が死んだとき、イノはまだ八歳だった。

あの日、セラーダの首都フィスルナは朝から激しい雨にみまわれていた。いつものように近所の友達と外で遊ぶこともできず、イノはずっと家の中ですごさなけ ればならなかった。外壁を打ちつけている雨音に、自分自身もたたかれているような気分でいたのを、よく覚えている。

セラーダ軍の兵士だった父グレンは、外地での任務のために家を空けていた。他に家族はなく、幼かったあの頃でさえ窮屈に思えていた家の中で、ひとりぼっち の留守番だった。もっとも、それはいつものことだった。

朝と夕方に、幼なじみのクレナが食事をとどけにきてくれたが、二度ともすぐに帰ってしまった。イノより五つ年上の彼女が、生産区で 働きはじめるようになったのもその頃だった。

夜更けになっても雨はまだ降り続いていた。貧相なベッドに横たわりながら、イノの心は遠くにいる父へと飛んでいた。今頃なにをしているのか、今度帰ってき たときには何日ぐらい一緒に過ごせるのか──留守番をしているときは、そんなことばかり考えていた。

そのときすでに、イノは自分が父の本当の子供ではないことを知っていた。それを教えてくれたのは父本人だ。

本当の故郷と両親は『虫』に襲われたらしい。悲劇の通りすぎた村の中、たった一人生き残った赤ん坊──それがイノだった。そして、その赤ん坊をひろってく れたのが、救援にかけつけた部隊の中にいたグレンだったと聞かされた。

初めて知ったときは、さすがにショックを受けたのを覚えている。もっとも、グレンがその衝撃の事実をいつものあっけらかんとした口調で告げ、以後もなに一 つ変わらぬ様子で接してきたために、そのショックは知らない間にどこかへ行ってしまっていたが。

それに、本当の親ではないと知ったところで、イノにとってグレンが「父親」であることに変わりはなかった。赤ん坊のころの記憶なんてありはしない。当然、 生みの親 の顔も声も浮かんでくるわけがなく、「本当の両親」という言葉に意味も実感も持たせることができなかった。それは今でも変わらない。

軍の兵士であるため、家を留守にすることが多いグレンだったが、イノはそのことを不満に思ったりはしなかった。遊び友達の中にも同じ境遇の者はいたし、む しろ父 親が戦士だということが誇らしかった。人々を守るため、そして『楽園』を取り戻すために『虫』と戦っている父を心から尊敬していた。

父が戻ってくるまでには、まだ数週間はあった。その日が待ち遠しくてならなかった。そう思うのはいつものことだったが、あのときはいつも以上に父の帰りを 望んでいた。

その当時、フィスルナを襲っていたのは豪雨だけではなかった。悪天候の数日前に一つの事件が起こり、首都は大きく揺れていたのだ。

それは『継承者』──サリエウス・セラ・アシュテナの殺害だった。

この大陸で唯一のセラーダという国家。そして、その頂点に君臨し、動かしている『継承者』と呼ばれる人々。彼らがいかに偉大な存在であるかは、子供だって 知っていることだ。その『継承 者』が、使用人をふくむ一家もろとも殺されてしまったのである。セラーダの歴史はじまって以来の一大事、と当時は誰もが騒いでいた。

あのとき、軍はフィスルナに駐留している兵士を総動員させての犯人捜し を行っていた。武装した怖い顔の兵士達が、首都のいたるところで見かけられた。

「アシュテナ卿暗殺事件」は、イノのような子供にも十分衝撃をあたえた。暗殺の犯人は、セラーダに反感をいだく人間達だった。後に彼らは捕らえら れ処刑されたと聞く。しかし、あの日はまだ騒動のまっただ中だった。街をつつむ緊迫した空気。激しい雨。ひとりぼっちの幼い子供が怯えるには十分な状況で ある。だからこそ、いつも以上に父の帰りを強く望んでいたのだろう。

眠れないまま、ベッドの上で膝をかかえていた。どのぐらいそうしていたのかは覚えていない。

扉をたたく音がした。

最初は気のせいだと思った。こんな夜おそくに人が訪ねてくることなんてないからだ。

再び音がした。今度は気のせいではなかった。静かにゆっくりと扉をたたく音が、うるさい雨音の中でやけにはっきりと耳に届いた。

誰だろう──扉のたたき方から、訪問者がクレナでないことだけはわかった。

警戒心から、イノはしばらく扉を見つめたまま動くことができなかった。治安がいい地区に住んでいるとはいえ、まったく犯罪がないわけではない。ましてや 「アシュテナ卿暗殺事件」に、すべての市民が大きく動揺していた最中である。

犯人だったらどうしよう‥‥‥。今から思うとバカバカしい心配を、小さな頭で本気になって考えていた。

また扉がたたかれた。なんだか扉が開くことを怖れているような、そんな弱々しい音で。

ようやく決心し、イノはベッドから降りた。怖くはあったけれど、それ以上に扉の向こうにいる誰かの正体が気になったからだ。

扉へ近づき、背をのばしてかんぬきを外した。ゆっくりと扉をあける。止むことのない雨音が一気に大きくなった。

「スヴェン?」

扉の向こうに立っていたのは、父の部下であり、イノが兄のように慕っている青年だった。セラーダ軍の鎧と兜をつけた全身はずぶ濡れだ。

「どうしたの?」

相手が親しい人間だとわかって、ほっとすると同時に不思議に思った。なぜスヴェンがここにいるのだろう。彼は今、父グレンと一緒に辺境の砦にいるはずなの に。二人が帰ってくるのはまだまだ先の話だ。

スヴェンは黙ったままだった。兜の下の表情は硬くはりつめていた。いつもの照れたような笑みは、そこにはなかった。

おそらくその時点で、幼かった自分にもわかっていたんだろうと、イノは今になって思う。

いや、それよりもずっとずっと前からわかっていたのかもしれない。父が『虫』と戦っていると知ったときから、いつかこのような日がやってくることを。

やがて、無言のままのスヴェンが何かを差し出してきた。

一本の剣。

それが父のものだと、イノにはすぐにわかった。以前、ふと壁に立てかけてあった剣に触ろうとしたとき、すぐさま父に取り上げられたことがあったからだ。

『おまえがコイツを持てるようになる頃には、あのバケモノ達はこの世からすっかりいなくなってるよ』

不満げな顔をした小さな自分に、父はそう笑っていった。その日から、剣はイノの目につくところに置かれなくなった。

その剣が目の前に静かに差し出されていた。でも、差し出しているのは父ではなくスヴェンだ。

雨に濡れポタポタとしずくを垂らす剣を、イノは黙って受け取った。それが意味するものをちゃんとわかっているというのに、不思議と声も涙も出なかった。

初めて手にした父の剣は、ずしりと重たく冷たかった。そして、それ以上に重く冷たい何かが、幼い心の奥深くに沈んでいった。

運命を変える大きな出来事──そんなものが本当にあるとしたならば、あの日がそうだったのだろうとイノは思っていた。

父の死がはじまり≠ナすらなかったと知ったのは、もっと後になってからだ。


*  *  *


大海と、止むことのない嵐に、四方を囲まれた大陸。

今より二百年前、この大陸に『楽園』と呼ばれた地が存在した。

高度な文明で築かれた大都市。すさまじい威力をほこる兵器の数々。それらを支える豊かな自然環境。そして、『楽園』という名にふさわしい理想郷で暮らす洗 練された民達。他を圧倒する力で大陸全土を掌握した彼らには、永遠の栄華が約束されているかのように見えた。

だが、その夢は突如として破られる。 正体不明の怪物達という悪夢によって。

なんの前触れもなく、いきなり『楽園』に現れた異形の大群は、そこに暮らす人間達を容赦なく殺戮しはじめた。男であろうと、女であろうと、子供であろう と、例外はなかった。犠牲者の数は、たった一日で百万を超えていたといわれている。高度な兵器で対抗するだけの猶予もあたえられぬまま、バケモノに蹂躙さ れる理想郷から逃げ出すことができたのは、ごく一部の民だけだった。

昆虫に似た容姿を持つ、人知をこえた怪物達。彼らを的確に呼び現す言葉は、多くの知識を有していた『楽園』にも存在しなかった。その暴虐の前に自らの至福 の地を追われてしまった民達は、恐怖と憎しみをこめて、彼らをただ『虫』とだけ呼称した。

過酷な旅路のはてに、『楽園』からはるか遠く離れた地まで逃げのびることができた民達は、苦心の末にその地に新たなる故郷を築き上げた。フィスルナと名づ けられた小さな街は、しだいに規模を広げ、やがてはセラーダという一大国家の首都となっていった。

そして、セラーダの勢力が大陸で揺るぎないものとなったとき、『楽園』を追われた民の子孫達は、自らを『楽園』を真に受け継ぐ者──『継承者』と 呼び現した。そして、時を経るごとにその活動の規模を広げ、今や大陸に生きるすべての人間を脅かす存在となった『虫』への宣戦を布告した。

『楽園』を奪い、すべての人間を殺戮しようとしている『虫』と。

『楽園』を取り返し、すべての『虫』を駆逐しようとするセラーダと。

大陸全土を巻きこんだ両者の戦争は、数十年にもわたり現在もまだ続いている。



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