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─一章  『虫』(6)─



── 闇の中を走っていた

ちがう。逃げている。がむしゃらに逃げている。

何度も叫んだ。応えてくれる誰かへ。

何度も叫んだ。静寂だけが応えてくれた。
 
背後の闇から、何者かが迫ってきている。

追いつかれてはいけない。

死ぬ。殺される。

身につけた鎧が重い。腰に下げた剣は虚しく揺れている。

ただ怯え逃げている自分。こんなはずではなかった。

前方にある扉。そこからもれている一筋の灯り。

あの光の中に入れば助かる。根拠のない希望をいだく。

背後の闇から迫る音。数を増やしている。

死にたくない。

ようやく光の中へ飛びこむ。根拠のない希望すら打ち砕かれた。

部屋中を満たす、赤い、赤い、血の色。

仲のよかった人間が、あまり言葉を交わしたことがない人間が。

一人残らず無惨な姿をさらして散らばっていた。

部屋中に瞬く、紅い、紅い、憎しみの瞳。

屍の上で蠢いている塊が、甲殻と関節をきしませている塊が。

立ち尽くしている自分をいっせいに見ていた。

もう逃げる気力さえなくなった。それでも、身体は部屋の奥へと後ずさりしている。

扉から入ってくる闇からの追っ手。部屋中を埋めつくさんばかりの灰色の塊。

背中が壁にぶつかる。もうこれ以上は下がれない。

何十もの紅い瞳。ゆらゆらと笑っている。悦んでいる。

死にたくない。死にたくない。死にたくない。

不意に自分の中に何かが生まれた。

身体よりも、心よりも、ずっとずっと奥に。

あふれ出るなにか≠ェ。

絶望よりも、生きようする意志よりも、強いなにか≠ェ。

飛びかかってくる灰色の塊達へ──


*  *  *


何者かに兜を小突かれ、イノは慌ててはね起きた。

「こんなところで居眠りとは、けっこうな身分だな」

見慣れた顔。聞き慣れた声。

「スヴェンか‥‥‥」

イノは安堵の息をはき出した。てっきり新手の『虫』かと思ってしまった。

「そっちはもう終わったの?」

「もちろん終わらせたさ。俺達でな」

怒ったような、呆れたような相手の口調。

「まったく‥‥‥許可なく戦列を離れておいて、よくそんなことが言えたもんだな」

もっともな話だ、と自分でも思った。

イノは立ち上がった。どうやらあのまま少し眠ってしまったらしい。我ながら情けない話だ。しかも、思い出したくもない過去の夢までみて。

おまけに、よりにもよってスヴェンに起こされてしまうとは。

意地悪げに笑っている彼の顔。まずい。非常にまずい。

「まあ、勝手に動いたのは‥‥‥悪かったと思ってるよ」

「前にも、まったく同じ言葉を聞いたな」

「すぐに戻るつもりでいたんだけどさ」

「それも聞いたな」

「つまり、オレが言いたいのは──」

バコン、とスヴェンにどつかれた兜が派手な音を立てた。

イノはおとなしく口を閉じた。

「話は後だ。残念だが、今はデキの悪い部下に説教たれてる時間はないからな」

少しずれた兜を直しながら、イノは内心でほっとした。とりあえず、この場は逃れられるようだ。この場での‥‥‥は。

「他のみんなは?」

「手分けして、この建物を調べまわっている。侵入してきた『虫』はまだまだ残っているようだし、俺達もこんなところで油を売っているわけにはいかないぞ」

「わかってるさ」

「わかってたら、俺がお前をわざわざ迎えに来ることもなかったんだがな」

「それは──」

そのとき、扉の向こうの通路から、誰かのすすり泣く声が聞こえた。

「クロニクの部下達さ」スヴェンが真顔でいった「俺も連中も‥‥‥アレを見てしまったからな」

イノは重々しくうなずいた。『虫』が造った悪趣味な死体の山。それは、犠牲者達と顔見知りでない自分にも、十分すぎるほどの衝撃をあたえた。彼 らと親しくしていた者は、なおひどい衝撃を受けてしまうだろう。考えると胸が痛んだ。

「仇は討ったよ」

横たわる巨大な死骸を見て、イノはつぶやいた。それが少しでも殺された者達への安らぎになることを願いながら。

「そうだな。命令無視はともかく、それだけは上出来だ」

スヴェンが静かにいった。彼から誉められるなんてめったにないことだ。少々面食らった。

「さあ行くぞ」と、彼はいつものきびきびした声にもどった「それとも、お前は負傷者と一緒に中央棟にもどるか?」

「まさか」

イノは肩をすくめた。 正直いえば、疲労や痛みはまだまだ身体に残っている。だが休む気はない。『虫』がまだいるのなら、いなくなるまで戦い続ける。そのために自分は 生きているのだから。

「あの、スヴェン」

扉を出て行こうとした彼の背に、イノはとっさに声をかけた。

「ごめん。その‥‥‥心配かけてさ」

なんだかんだ言いながら、相手が自分の身を案じて来てくれたことが、イノにはわかっていた。そのことには心から感謝してるし、すまなくも思って いる。それでも、同じようなことを何度も繰り返してしまうのだが‥‥‥デキの悪い部下、というのはものすごく的を得た表現だ。

「ま、これも仕事だからな。だが『気にするな』とは絶対に言わんぞ?」

肩ごしに振り返ったスヴェン。浅黒い肌をした彫りの深い顔が笑っている。それは「黒の部隊」の隊長としてではなく、イノが幼い頃から兄のように 慕い尊敬している男の笑顔だ。その優しげな眼差しが好きだった。もちろん、本人に面と向かって、そんなことは言えやしないが。

スヴェンが食堂を出て行く。イノは気を引きしめて、彼の後を追った。



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