─二章 首都フィスルナ(6)─
「閣下。シリオス卿がおみえになりました」
若い女従者の言葉に、ガルナーク・セラ・アシュテナは顔を上げた。
「通せ」低い声で命じる。
一般市民から完全に隔てられた『継承者』達の居住区。当然、セラーダ軍の頂点に立つ将軍ガルナークの屋敷もその中にある。
広い部屋を飾る贅をこらした内装の数々。そのどれ一つとっても、市民が数年はゆうに遊んで暮らせるだけの価値があるものばかりだ。だが部屋の主は、それ
らの調度品に囲まれて悦に入っているわけではなかった。
五十後半をすぎてなお、暗緑色の長衣の下にある鍛え上げられた肉体は、前線で指揮を執っていた頃にくらべて少しも衰えていない。針を思わせる硬い頭髪から
突き出た額。太い眉とがっしりとした鼻。そして、落ちくぼんだ灰色の瞳が威嚇するような光を放っている。
まるで、つねに怒りと不満をたたえているような自身の容貌。その印象を否定する気は、ガルナークにはない。なぜなら、それは事実なのだから。
「おはようございます。セラ・ガルナーク将軍閣下」
部屋に通されたシリオスが、うやうやしく膝をついて挨拶をのべた。
「なんの用だ?」
ガルナークは相手を見下ろしたままたずねた。
「さきほど私の部隊が、ブレイエに向けて出立しました。そのことをご報告に」
「くだらん。わざわざそんな事を言いに来たのか?」
目の前の男が穏やかに微笑む。いつ見ても腹の虫がうずくような笑み。
「閣下は興味がおありでないので?」
「何度も言わせるな。『金色の虫』、ネフィア‥‥‥バカバカしい。そんなものにかまっている暇などない。今が『聖戦』をひかえた重要な時期だということぐ
ら
い、貴様にもわかっておるだろう?」
「その『聖戦』のことですが、議会の方はなんと?」
「スラでの一件のおかげで、反対派どもは完全に沈黙した。『虫』どもがどこから攻めてきたのかが不明、というのが効いたのだろう。奴らが、次にこのフィス
ルナに現れないという保証はないのだからな」
「たしかにその通りですね」
「もはや邪魔するものはいなくなった。スラを失ったのは手痛いが、その代価としては上々だ。もうじき‥‥すべてが来るべき戦いに向けて動き出す」
一口に『継承者』といっても、何十もの氏族がある。そして、その中でも力を持った十九の氏族によって、セラーダの議会は構成されていた。彼らこそが国家の
すべてを決め、動かしているのだ。むろん、ガルナークもその一人である。
しかし、政治にしろ、軍事にしろ、議会にいる者達すべてが、一つの意志の下にあるわけではない。事を決定するまでには、互いに長い討論をくりひろげる場合
がほとんどだ。
『聖戦』の場合もそうだった。ガルナークを筆頭にした「賛成派」と、亡き兄サリエウスの支持者達「反対派」とにわかれ、ここ六年もの間すさまじい議論を続
けてきた。
国力の疲弊と、失われる兵達の人命の尊さを主な理由に、「反対派」はこれまで『聖戦』を否定し続けてきた。だが、それもようやく終わった。
どれほどそれらしい理屈を重ねようと、しょせん「反対派」の人間を動かしているのは、現状への安寧と、旧来の教えへの反発心にすぎない。ガルナークはそれ
を知っている。なぜなら、かつては自分も兄とそのように考えていたからだ。
だが間違っていた。『継承者』として、幼少の頃より教わってきた祖先達の願い。『楽園』の奪還と『虫』達の根絶──それこそが何にもまして真実だったの
だ。
過去、取り返しのつかぬ代償とひきかえに、ガルナークは自らの過ちを思い知らされていた。
だからこそ、祖先の悲願をかなえるための『聖戦』実現のためには、いかなる努力も惜しんではこなかった。どのようなことでも、ためらわず実行してきたの
だ。
「それより」と、ガルナークはシリオスに注意をもどした。
「貴様はずいぶんと、このくだらぬ一件に執着しているようだな」
「おっしゃるとおりです」
「なぜだ?」
ガルナークの猛禽のような灰色の瞳。並みの人間なら震え上がる威圧感を持ったその視線をまともに受けても、黒衣の男は眉一つ動かさない。
「『聖戦』は、必ずや成し遂げられなければなりません。そのためには、いかなる憂いも取りのぞいておくべきでしょう?」
ガルナークは鼻で笑った「ネフィアがそうだとでも言うつもりか? どのような連中かは知らんが、しょせん我らを脅かすほどのものでもなかろう。これまでた
たき潰してきた反組織のクズ共と同じだ。それが『聖戦』の憂いとはな」
「心強いお言葉です。ですが、私はこの通りの小心者でして」
さらに鼻で笑った。しかし、相手の言葉を真に受けてのことではない。その逆だ。
小心者。目の前の男に、これほどふさわしくない言葉があるだろうか。
『継承者』の中には、この成り上がり者≠不愉快に思っている者もいる。彼らは、シリオスがガルナークに媚びへつらって、今の地位を手に入れたのだと信
じているらしい。
だがそれは誤りだ。まずガルナーク自身が、世辞や追従に気をよくするような愚かな人間ではない。たとえ同胞たる『継承者』であっても、口先だけの無能と判
断した者は、これまで容赦なく切り捨ててきた。
そして何よりも、シリオスの陰口を叩く者は、彼が前線で戦っていた姿を目にしていない。だが、ガルナークははっきりとそれを覚えている。
異常としか考えられない彼の戦いぶり‥‥‥思い出すたびに戦慄が走る。セラーダ軍の頂点に立つこの自分がだ。
その男を自らの片腕とし、「英雄」として祭りあげ、『継承者』の地位まであたえたガルナークだが、決して気を許したことはなかった。むしろ自身にもわか
らぬ理由で嫌悪すらしている。
「ふん」と、その悪寒を払うかのように声を出す。
「まあよい。ようやく『ギ・ガノア』も完成したことだ。貴様の好きにするがいい」
どうせこれ以上追求したところで、のらりくらりと受け流されるだけだろう。
「ありがとうございます」シリオスが、深々と頭を下げた。
「ただし、余計な兵を動かすことだけは許さんぞ。貴様自慢の『黒の部隊』のみで行え。わかっているな?」
「心得ております。セラ・ガルナーク将軍閣下」
流れるような口調。涼やかな笑み。従順そのものの態度。それなのに、なぜこうも心騒がすものを、この男に感じるのか。
足音一つ立てることなく、黒衣の英雄は退出した。ガルナークは再び一人になった。
不愉快だった。シリオスと会った後はいつもそうだ。
なにを考えているのかは知らないが、しばらく好きに泳がせておいてやろう。「セラーダの英雄」には、まだこれからも働いてもらわねばならない。『楽園』を
取り戻すその日まで。
成り上がり者≠処分するのは、その後でもかまわない。