─三章 二人の少女(3)─
開いた視界に、すすで汚れた天井が飛びこんできた。
イノは慌ててはね起きた。そして、自分がベッドの上で寝ていることに気づいた。
周りを見渡す。だだっ広い部屋に、整然とならんでいるベッド。
ここはどこだろう。なぜ、自分はこんなところで寝ているのか。
思考がはっきりするにつれて、しだいによみがえってくる記憶。
ブレイエの砦への到着。「声」となって聞こえてきた不可思議な感覚。『金色の虫』。そして、あの見知らぬ都市と、謎の少女との出会い‥‥‥。
しかし、そこから先が思い出せない。
いったい、あの子は何者だったというのだろう。いや、そもそも、あれは本当にあった出来事なのか。
夢‥‥‥とは思えなかった。一連の出来事のすべてが、鮮明すぎるほどイノの記憶に焼きついていた。
あの少女と交わした言葉。その一つ一つだってちゃんと覚えている。最後に彼女が口にした、「ラフスルエン」という聞き慣れぬ名前でさえも。
そのとき、扉の開く音がした。
「ようやくお目覚めか?」と、入ってきたのはスヴェンだ。
「──そうらしいよ」
イノはひとまず記憶をふりはらって返事した。
「なにが『そうらしいよ』だ」
まだ自分の置かれた状況がよくつかめていないイノのそばまでくると、スヴェンはあきれ声で頭を小突いてきた。少し痛かった。今ごろ気づいたが、装備が外さ
れてベッドの脇に置かれていた。
「お! 起きたのかよ『虫』バカ」
続けて部屋に入ってきたガティが言った。
「だからやめろってば、それ」
すかさず言い返した。現状はわからないままだが、その呼び方を認めるわけにいかないのは理解しているイノである。
「だってしょうがねえだろうがよ」
カレノアと一緒に入ってきたドレクが、ニヤニヤ笑う。
「まさか、ぶっ倒れるほどあのキンピカに惚れちまうとは思わなかったぜ」
「ぶっ倒れる?」
『惚れた』の部分は無視して、イノは聞き返した。
「おいおい。覚えてねえのかよ? あいつを見た瞬間に、お前さんバッタリ倒れちまったんだぜ」
「倒れた‥‥‥」
つまり、自分は気を失ったのか。気絶するのはこれで二度目だ。一度目は、あの思い出したくもないアルビナでだった。
「大変だったんだぜ。ここまでかつぎこんだりしてさ」とガティ。
「ここは?」
「砦の中にある部屋ん中だ。ビネンのオッサンが使ってくれとさ。お前が寝てる間に日が暮れちまったから、今夜はここに泊まることになったんだよ」
そう説明し、彼はスヴェンを見た。
「フィスルナに連絡してもらうようここの兵士に頼んだ。予定より戻るのが少し遅れるが、まあ仕方ないだろ。夜の森を突っ切るのは、さすがにぞっとしないか
らな」
「そうか‥‥‥ごめん」
イノは素直に謝った。自分のせいで任務に支障をきたしてしまったことに責任を感じた。戦闘で負傷したわけでもないのに気を失ってしまうとは。ひどく情けな
い気分だ。
だけど、本当に「それだけ」のことだったのだろうか? あの少女の悲痛な笑みが脳裏をよぎる。みんなの様子を見れば、あきらかにあんな体験をしたのが自分
だけだとわかる。口にしたところで、誰も信じてはくれないだろうことも。
「まあ気にすんなって。俺は感謝してるぜ? お前のおかげで、今夜はぐっすり眠れそうだしな。ここなら、いつものクソうるさい警鐘でたたき起こされることは
ないだろうからよ」
ガティが笑ってイノの肩をたたいた。スヴェンとドレクも笑っている。カレノアは笑っていたわけではないが、心なしか穏やか表情に見えた。
みんな、なんだかんだで自分のことを心配してくれていたのだ。そんな仲間達の気づかいがうれしく、少しだけ恥ずかしかった。
「みんなはなにしてたのさ? オレが寝てるあいだ」
イノはたずねた。気恥ずかしさと、よみがえりそうな記憶をごまかすために。
「ああ。ここの連中と賭け札をやってたよ」ガティがこたえた。
「賭け札か。で、誰が勝ったの?」
「カレノアさ。すごかったぜ!」
「全戦全勝だからな」感心するようにドレクがうなずく。
「普段やらないから、俺が無理に誘ってみたんだ。まさか、こんな才能があったとは知らなかったけどな」
スヴェンがおどけたように言った。
へえ。こりゃまた意外な、とイノは大男を見る。そこにはみんなの賞讃をいつもの無表情、無感動で受け流す彼の姿が‥‥‥。
(あれ。なんか赤くなってやしないか?)
まさかな──と思いなおす。目の錯覚だろう。「素肌に磁石がくっつく」なんて噂されてる「鋼の男」が、こんなことで照れたりするわけがない。
「さて。こいつもようやく起きたことだし」
スヴェンが再び小突いてきた。今度のは優しかった。
「飯でも食わせてもらいに行こうか」
* * *
レアは苛立っていた。
静かな夜の森にときおり響く鳥や虫の声。風になびく木々の葉のざわめき。それらすべてが、いちいち神経を逆なでする。
合図はまだない。
じっとしているのは嫌いだった。無性に身体を動かしたくてたまらなくなる。
動いている間はそのことに集中できる。なにも考えなくてもすむ。なにも思い出さずにすむ。
とつぜん、笛を吹くような鳥の声が頭上から聞こえた。脳天気な鳴き声をしたそいつに、思わず怒鳴りつけそうになった。
緊張している‥‥‥レアはその事実を苦々しく認めた。今回の作戦は、自分にとってはじめての実戦なのだ。
合図はまだない。
リーダーであるサレナクは、この作戦でもっとも重要な役目をレアにまかせた。初陣なうえに一番年少で、さらには女であるにもかかわらず。
しかし、仲間内の誰もこの決定に文句は言わなかった。レア自身も、それを当然のことだと受けとめていた。むしろ、選ばれたのが他の者だったならば、サレナクに
食ってかかるつもりでさえいたのだ。
ただ、彼がその役目を告げたときに、「よけいな戦いはするな」と念を押すように言ったのだけには腹が立った。誰よりも優秀だからこそ大役をあたえてくれたのだろうに、これではまるで子供の扱いだ。
それとも、サレナクの目に映っている自分の姿は、彼と出会ったときのままの姿で止まっているのだろうか。
あの頃の、なんの力も持たず、なにもできなかった小さな女の子のまま。
(ちがう‥‥‥)
腰の剣を握りしめる。もうあのときの少女はいない。それを今夜照明してみせる。サレナクと、アシェルと、誰よりも自分自身に。
もっとも、この任務の目的は戦うことではない。だから、あたえられた役目を果たすことだけを第一に考えていた。
よけいな戦闘はしない。
だけど──とレアは小さな望遠鏡で見た「黒の部隊」を思い浮かべた。
漆黒の兵士達。彼らの姿が、忘れることのできない記憶と重なる。赤と黒とにいろどられた忌々しい記憶と。
狂おしいほどの憎悪のうねりが、レアの心を満たす。
合図はまだない。
自分が為すべきことぐらいわかっている。私情にかられて任務を見失う気はない。
(だが、もしあの連中が邪魔をするようなことがあれば‥‥‥)
再び頭上で鳥が鳴いた。しかし、レアの耳には届いていない。
(そのときは‥‥‥)
突如、すさまじい轟音が森をふるわせた。合図だ。いよいよはじまった。
(殺してやる)
レアは行動を開始した。