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─十一章  優しさへの追憶(7)─



「それから後のことは、あなたにもだいたいの想像がつくと思う」

長い長い追憶が終わり、レアはイノを見た。

「アシェル様やサレナク、そしてネフィアの人々のおかげで、わたしは再び絶望の中から這い上がることができた。泣いたり、笑ったり、そんな当たり前のこと が、またできるようになったわ。でも……あの夢だけからは逃げられなかった」

死者の訪れる夢。なにもできなかった自分に対する戒め。

「それを見るたびに思い知らされた。このまま、みんなの優しさに包まれてぬくぬくと生きていくことなんて……わたしには許されないのだと。同時に、シリオ スと叔父への……わたしから大切なものを奪った二人への憎しみが、日増しに膨れあがっていったわ。どうにもならないぐらいに」

あの二人に、奪っていったものへの代価を払わせたかった。彼ら自身の命で──そう考えた。

イノは静かに耳を傾けている。

「だから剣を手にしたの。いつか、あいつらをこの手で殺すために。そして、アシェル様をこの手で守るために。もう誰にも奪わせたくはなかった。再びわたし にあたえられた大切なもの……これだけは絶対に失うわけにはいかなかった。夢に出てくる父と母に見せてあげたかったの。わたしが……なにもできない人間 じゃないって。そうすれば……許してもらえるかもしれないって」

しだいに語気が強まっていく。おかしい。イノに昔話だけをして、それで終わりにするはずだったのに。滑り終わった過去に引きずられるように、熱いものが心 の殻を破ってあふれ出てくる。止まらない。

「でも……だめだった」

かすれた声。疲れ、歪んだ笑いが浮かぶ。

「また大切なものをなくしちゃった。これで三度目よ。どうしようもないマヌケだわ。今度も、わたしはなにもできなかった。あの男が目の前で……目の前でア シェル様を殺したのに……わたしは……」

見ているしかできなかった。相手の持つ理解を超えた力に打ち負け、恐怖におののきながら。あれほど憎んでいたはずなのに、この手で殺すと誓っていたはずな のに、あっさりと敗れた。向こうにかすり傷一つ負わせることなく、死に物狂いで築き上げてきた自分の力は真っ二つにへし折られた。

『あなたには不可能です』──事実を告げる言葉。この男を自分の手で殺すことなんて無理なのだと悟った。永遠に埋めることのできない差。意志や努力では、 どうにもならない残酷な現実。

そして、失意に打ちのめされ無力となった自分をかばって、サレナクは死んだ。彼が『虫』に襲われているのに、自分がやったことといえば悲鳴を上げたことぐ らいだ。

殺したかった相手も殺せず、守りたかった人も守れず、必死で覚えた剣が為したのは、憎んでもいなかった五人の兵士の命を奪っただけ。もはや……ただの人殺 しだ。そして、そんな自分を好いたために、ソウナは結果として命を落としてしまった。

「もう嫌……疲れたわ……」

なにもできず奪われ、死者の恨みを買うだけの生に。

「あの湖の畔にいたとき……」

レアは再びイノを見た。彼はだまってこちらを見つめている。きっと呆れているのだろう、今までさんざん偉そうに振る舞ってきた女の実体を知って。

「わたしは死のうと思っていたの。あなたが立ち去った後で。自分には、もうこれ以上、なにもできやしないのがわかっていたから。だから、ちゃんと死んでみ んなに謝りに行こうって……そう決心してた。あなたが『楽園に行く』って言うまでは」

イノの決意。たった一人で『楽園』を目指すというのは、ただの自殺行為にしか聞こえなかった。でも、彼が真剣そのものなのはわかった。自分と同じように多 くを失いながらも、必死であがき、己にできることをやろうとしているのだと。それは、すごく眩いもののようにレアの目には映った。羨ましかった。

だから、共に行くと決めた。ランプの明かりに惹かれる虫のように、彼の決意に見た輝きに惹かれて。こんな自分にも、まだなにかできるかもしれないと。

だが──レアは顔を伏せた。ここから先の言葉は、イノをますます呆れさせ、そして怒らせることになるのがわかっていた。

「さっき……あなたに起こされるまで夢を見ていたの。いつもの夢よ。みんながわたしを恨んでいる夢。それが、はっきりと教えてくれたわ。所詮、わたしのや ろうとしていることなんて無駄なあがきにすぎないんだって。結局は、何ひとつできやしないんだって」

そう。わかっていた。ずっと前から……心の奥底では。

「本当は、わたしはこの旅が成功するなんて思ってないわ。だいたい無理に決まってるじゃない。たった二人で『楽園』に行くなんて。どちらも必ず途中で死ん で……それで終わりよ。そして、それこそがわたしが心の底で望んでたことだったの。結局、ただ自分で死ぬのが怖かっただけ。『虫』でもなんでもいいから、 この奪われるだけの人生を終わりにしてほしいと思ってただけなの」

イノの真剣な想いを踏みにじる言葉。最低なのはわかっている。だからこそ、ちゃんと言わなければならなかった。これ以上、自分を誤魔化すことはできない。 死者達が許してくれない。

「ごめんなさい。あなたに『投げ出すな』って誓わせておいて、わたしは……最初から投げ出していたのよ。もう、わたしのことは置いていってかまわないわ。 必要なことはすべて教えるし、道具だって全部持って行ってくれていいから」

言うべきことは言った。なにもかもを吐き出した。もうどうなってもよかった。イノに蔑まれようと、殴られようとも。それは当然のことなのだから。

焚き火がはぜる。風が草むらを流れていく。

やがて、イノが動く気配がした。こちらへ向かってくる。

黒い手袋をした手が、肩に乗せられた。自然と身がこわばった。

「レア」

優しい声に顔を上げた。彼から名前を呼ばれたのは、これが初めてだった。

「悪いけど……オレはこの旅が失敗するなんて考えてないんだ。なにが邪魔してこようが、絶対に『楽園』へたどり着く気でいる。最初に行くって決めたとき は、正直やけになってた部分も少しはあったと思う。オレも……色々無くしちゃったから。これ以上生きてるのに嫌気がさして、無茶なことしてやろうって、 まったく考えてなかったって言ったら……嘘になるかもしれない」

蔑んでも、怒ってもいない。黒い兜の下には、いつものイノの顔があった。微笑みすら浮かべて。

「でも、今ではそんな気持ちはないって言えるよ。そして……そう言えるのはレアのおかげだと思ってる」

「わたしの?」

「最初は一人で行く気だった。バカなことなのはわかってたし、死ぬかもしれないのもわかってたし、誰も巻きこみたくはなかったから。だから……レアが一緒 に行くって言ったときはかなり困ったよ」

彼はそういって、少し笑った。

「でも、オレ一人だったら途中でどうしようもならなくなってた。恥ずかしいけど、本当になにも考えてなかったんだ。『楽園』への道のりとか、旅するための 準備だとか……。それを、ちゃんと形にしてくれたのはレアだよ。だから、今のオレにはこの旅が──なんていうか、ただ決意しただけのものじゃなくて、きち んとした現実に思えてきてるんだ。だから、『楽園』にだってちゃんと行ける気がする。まあ、単純すぎる考えかもしれないけど」

緑の瞳が、しっかりとレアをのぞきこんだ。

「レアは何もできなくなんてないよ。オレよりも、ずっとずっとよくやってるよ。だから一緒に来てほしい。これから先も。誰にも奪わせやしないさ。オレ達の やろうとしていることを」

ちょっと照れくさそうなイノの顔がぼやけた。目の奥が熱くなったせいだ。彼が怒ったり殴ったりしてこないせいだ。優しい声で、言葉で、笑ってきたりなんか するせいだ。

何もかもすべて吐き出したと思ってたのに、また何かが心から溢れ出てこようとしている。イノが口を開くたびに、それがつつかれて、外にこぼれそうになる。

もうこれ以上、何も言って欲しくなかった。それでも、彼の言葉を求めている自分がいた。

「それに……アシェルやサレナクが死んだとき、なにもしてやれなかったのはオレだって同じだよ。レアだけが悪いんじゃない」

「でも……」

しゃっくりみたいな変な声が出た。ちゃんとしゃべってるつもりなのに。

「オレはレアの両親を知らない。アシェルやサレナクのことだって、ちょっとしか知らない。でも……彼らがレアのことを恨んでるとか、なにもしてあげられな かったことを許してないとか、死んで謝って欲しいとか、そんなふうに考えているとは思わない」

そうなのだろうか。本当に、みんなは恨んでいないのだろうか。

「もし、オレが旅の途中で死んじゃって、レアが生き残ったりしても、これっぽっちも恨んだりはしない。約束する。もし、その夢にオレが出てきたとしても、 それは本当のオレじゃなくて……レアが自分のことを悪い悪いって思う気持ちが見せてるオレだよ」

「なんだか……おかしな約束ね」

声がちゃんとしたと思ったら。今度は頬を熱いものが流れた。

「ま、だからって死ぬ気は全然ないんだけどさ」

おどけたようにイノが笑う。彼と同じように笑いを浮かべようとしたけれど、少しも上手くいかなかった。

涙が止まらなかった。ちゃんと返そうとした言葉が、一つも口から出てくれなかった。

イノの言うとおりなのだろうか。自分のことを悪い悪いと思う気持ちが、罪の意識が、夢に出てくる死者の正体なのだろうか。大好きだったみんなを醜い姿に変 えていたのは、他ならぬ自分自身だったのだろうか。そんなふうに考えたのは初めてだった。

もちろん、すんなり受け入れられるわけではない。長い間培われてきた心の闇が、一瞬で晴れるようなことはない。それに、死者達には自分が奪ってしまった兵 士の命もある。ネリイを助けるためだったとか、そうしなければこっちがやられていたとか、そんな言葉で、簡単に責任を逃れられるとも思っていない。みんな のことも、あの兵士達のことも、生きている限り自身の影として存在し続けるだろう。

だが、イノの言葉が自分の中の何かを突き崩したのを、レアは感じていた。

苦しかった何かを。痛かった何かを。悲しかった何かを。

気づけば声を上げて泣いていた。みっともない姿だというのは、わかっているのに。

やがて、イノの腕が少しぎこちなく動いたと思ったとき、レアは彼の腕の中にいた。さっき蹴とばしたときとちがって、少しも抵抗する気がおきなかった。素直 に身をまかせ、相手の胸に顔をうずめている自分が信じられなかった。

あれほど忌み嫌っていた黒い鎧。その冷たさが額に心地よかった。鎧を身につける彼の温もりが、心にまでしっかりと伝わってきていた。

同じ暖かさ……父と、母と、サレナクと、アシェルと。

記憶にある優しさと、今ある優しさの中で。

まるで子供のように、レアはずっと泣き続けた。



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