─十六章 自由都市シケットの殺戮(1)─
「イノ! ばあちゃん! 無事だったんだ!」
恐慌に陥った人々の群れから、なんとかヤヘナをかばいつつ避難所にたどり着いたイノに、ホルが派手な声を上げて駆け寄ってきた。
「レアは──」
広いドーム状の避難所にごったがえしている群衆を見渡して、イノは眉をひそめた。
「レアはこっちに来てないのか?」
「あれ。一緒じゃなかったの?」
「市場で騒ぎがあって、そのとき離ればなれになったんだ。オレ達とはちがう路地に流されていったのまでは見たんだけど……」
イノは避難所の入り口を見た。さっきまで洪水のように人間が押し寄せてきていた鉄門からは、今ではまばらに人が駆けこんできているだけだ。そのそばには、
警備隊の人間を中心に人だかりができている。どうやら門を閉めるか閉めないかで揉めているらしい。
自由都市シケットの避難所はこの一つしかないのだと、イノは聞いていた。門を閉じてしまえば、逃げ遅れた者達の居場所はなくなる。
イノは焦りに視線をめぐらす。やはりレアの姿はない。この場にも。逃げてくる人達の中にも。
「くそっ! 今から探してくる!」
「無茶だよ! もう正門は破られたらしいじゃないか。連中は街中まで入りこんじゃってるよ。しかも大砲まで持ってるって……」
「ここに来てないのなら、レアはまだ街の中に取り残されてるんだ。行かなきゃいけないだろ!」
止めようとするホルに対し、いてもたってもいられない激情でイノは声を荒げる。騒動の渦中に一人きりでいるかもしれないレア。怪我でも負ったのか。それと
も……。
だめだ。そんなことあってはならない。許されない。
「まったく……」ヤヘナがいった。
「呆れた坊やだよ。こんな老いぼれを助けて、肝心のお嬢ちゃんをほったらかすなんてさ」
「ばあちゃん! 助けてもらっといて、そんな言い方することないだろ!」
「バカ孫は黙ってなよ。しゃべるばっかで、たいして役に立ってないくせにさ」
「なんだって? 俺が役に立ってないだなんて、いくらばあちゃんでも許さないぞ!」
「ホントのことじゃあないか」
「やめろよ二人とも!」
イノの怒鳴り声に、険悪になっていた老婆と孫が彼を見る。
「ヤヘナの言うとおりだよ。オレは何があってもレアの手を放すべきじゃなかったんだ。たしかに……バカだと思ってるよ」
離ればなれになる一瞬だけつかんだ彼女の手。滑らかな肌の裏にあった掌は、長年剣を握り続けていたためにごつごつと硬かった。でも、その手は柔らかかっ
た。暖かかかった。なぜならば、手の主が持つ優しさと一生懸命さを、イノはちゃんと知っているのだから。
「でも、あのときレアを助けてヤヘナを見捨てたりしたら、きっと彼女はオレを怒ったよ。『こんな老いぼれ』だろうとなんだろうと、レアは本気でヤヘナを心
配してたんだからさ」
老婆と孫は顔を伏せた。
「だから行ってくる」イノは強くいった。
「レアの望みは叶えたけど、オレがバカをしたことに変わりはないんだから。自分の不始末は自分でつけるよ」
「一人は無茶だよ!」ホルが食い下がった。
「いや……一人の方がいいんだ」
それだけを言って、イノは話を打ち切った。怪訝そうな顔つきのホルと、鋭い視線を向けてくるヤヘナから目をそらせる。
イノはそのまま入り口を見た。街から響いてきていた大砲による破壊音は、すでに止んでいる。襲ってきた連中は、もう市街に踏みこんでいるだろう。その数
は十や二十どころではないはずだ。レアを探す途中で彼らと出くわす可能性は十分にある。そうなれば、鎧すら身につけていない今の状態で、武装した大勢の人
間を相手になんてできるわけがない。
いざとなればあの〈武器〉を使う──イノはそう考えていた。
しかし、あれを使ったのは初めての一度だけだ。はたして今度はどういう結果を招くのか自分でもわからない。再び〈力〉に飲まれてしまい、敵以外の人間にも
その暴威を向けてしまわないという保証はどこにもないのだ。それならば、なるべく周囲に親しい者がいない状況で使うのが望ましかった。
(だけどできるのか……悪党とはいえ相手は『人間』だぞ?)
わき上がる不安。しかし、今はレアを探しに行かなくてはならない。〈武器〉を使うかどうかはともかく、絶対に彼女を失うわけにはいかない。それだけは、はっきりしているのだから。
思えば、『楽園』への旅をはじめてから、お互いが離ればなれになったのはこれが初めてだった。まるで自分の身体の一部を失ったような気分だ。いかに彼女の存在がこの旅に……いや、自分にとって大きなものであるかを、イノは今さらながらに痛感していた。
「じゃあ、行って──」
こちらを見つめているヤヘナとホルに顔を向け直し、イノがそう言いかけたとき、大きな振動が避難所の壁を振るわせた。
パラパラと降ってくる破片。悲鳴があちこちで上がった。
「奴らだ!」誰かの恐怖の叫び。
再び衝撃。入り口の石壁が吹き飛んだ。開いていた鉄門が歪み、派手な音を立てて近くにいた人間を下敷きにして倒れこんだ。難を逃れた者達が、決死の形相で奥にいる群衆の下へと駆けていく。もはや、悲鳴は建物内のあらゆる場所で起こっている。
扉を失い大きく穴の空いた入り口から、日が沈み夜の闇が広がっている外の景色が見えた。そして、いまだ崩れ落ちている石壁の破片と、粉塵がモクモクと立ち上る中から、武装している男達が避難所の中へと続々足を踏み入れてきた。
「動くんじゃねえぞ!」
その中の一人が声を上げた。
「そうしやがったら、今度はこの中にぶっ放すからな!」
男達の年齢も格好もまちまちだが、人目でそれとわかる野卑な顔つきと陰険な雰囲気だけは全員に共通していた。獲物を追いつめた獣のような殺伐とした光を瞳にたぎらせ、奥で一塊になっている群衆を睨めつけている。
この都市を襲撃した悪党達……彼らが敵なのだ。
ちくしょう!──イノは内心で毒づいた。これでもう、こいつらと一戦交えずに外へ出ることは不可能だ。はやくレアを探さないといけないのに。
(使うのか? ここで……みんなの見ている前でアレを使うのか? 同じ人間であるこいつらに使うのか?)
歯がみしているイノにはおかまいないしに、続々と入ってくる襲撃者達。避難所の群衆と対峙するように並んでいる彼らの数は、ざっと見ただけで二百名はいるだろう。
そして、煙がおさまりかけ相手方の大多数が内部に入りきったところで、驚くほど大柄な男が、傍らに小太りの男を引き連れて姿を現した。
身につけた服と鎧から、やけに色の薄い地肌をのぞかせている異様な風体のその男に、他の連中が注いでいる視線……おそらく、あれが彼らの首領なのだろう。
分厚い刃をした剣を手にしている一方で、なにか縄のような物をしっかりと手に握っている。ぴんと張った縄の先は、崩れた壁の影になっていてよくは見えな
い。
首領がふと足を止めた。薄い唇に残虐そうな笑みを浮かべ、縄を乱暴に引く。やがて、その先に繋がれた人影がよろけながら入り口の影から姿を見せる。
まるで罪人のように引き立てられてきたのは、後ろ手に縛られた一人の少女だった。
あまりにも見慣れた面立ちと。乱れた明るい栗色の髪と。苦痛と屈辱に耐える青い瞳と。
イノは愕然と目を見開いた。
「レア!」
思わず叫んだイノに気づき、レアがさるぐつわをはめられた口でくぐもった声を上げた。しかし、こちらへ駆け出そうとした彼女の身体は、縄を握る首領の手で
あっさりと引き戻され抱えこまれる。
ぬけだそうともがくレア。袖のない蒼い上着から伸びた彼女の腕。その白い肌のところどころに、ひどく殴られたとおぼしき傷跡がついていた。
どくん。
かつて感じたことのないほどの怒りが体内で脈打つのを、イノは感じた。
「なんだ? あの小僧が『前の男』か?」
太い腕でレアを捕まえたままの首領が、彼女の耳もとに口をよせてたずねた。
目と鼻の先にある男の顔を、レアが怒りの眼差しでにらみ返す。とたん抱えている太くたくましい腕に力が入った。締め上げられ、苦痛に表情を歪める彼女。汚らしい布の押しこまれた口から漏れるうめき声。
どくん。どくん。
さらなる激怒がイノに剣を引き抜かせた。
「あれ? お前も黒い剣持ってんのかよ」
愉快そうに相手がいった。その腰にはレアの剣がぶらさがっている。
「……レアから手を放せ」
「へえ。こいつはレアってのかい。ありがとうよ。ちっとも名前を教えてくれなくて困ってたんだ。まあ、口塞いじゃってるのもあるけどな」
「……放せよ」
「面白れえガキだな。ここのヘナチョコ警備隊や傭兵連中よか、よっぽど様になってるじゃねえか。ちなみに俺はズラセニってんだ。」
ズラセニと名乗った巨躯の男は、唇をつり上げた。
「いいね。お前みたいなのは好きだぜ。男じゃなかったらな」
後ろにいる部下達が、下品な笑い声を立てた。
「このろくでなし!」ヤヘナが叫んだ。「その子から手を放しな!」
「レアに触るな、このデカブツ野郎!」ホルが怒鳴る。
「この兄ちゃんだけじゃねえ。オレ達も相手になるぜ」
隊商の傭兵達が凄みをきかせた。
おお、すげえな! とズラセニはわざとらしい大げさで驚いてみせた。
「みんなに大事されて結構じゃないか。なあ?」
そう言いながら、手をレアの顎にかけてガクガクと揺さぶる。相手から好きにされるがままの悔しさに、彼女は硬く目を閉じて耐える。
イノが駆け出そうと一歩踏みこんだとき、相手がさっと剣を構えた。
「まあ落ち着けよ。こいつが傷物になっちまうぞ」
ぎらつく刃がレアの肩口に当てられる。イノは歯ぎしりして動きを止めた。
どくん。どくん。どくん。
しだいに激しさをつのらせ脈打つ鼓動。あふれる怒りと憎悪が、自身の深奥にある扉に手をかけようとしている。その先にある〈力〉が、鎖を解き放たれるのを待つ猛獣のごとく唸り声を上げて待っている。
レアがはっとしてこちらを見た。激しく首を振る。
『だめ!』
そう必死に訴える彼女の瞳。
『わたしが何とかしてみせる。あれを使っちゃいけない!』
交わされる互いの視線。この状況にあっても自分への優しさを示してくれる彼女の意思。イノの中のどす黒いものがなりを潜めた。扉を開けようとしていた手が止まる。だが、ほんの少しだけだ。
「お前が怒る気持ちはよくわかるよ」
にらみ続けるイノに、朗らかといってもいい口調でズラセニが続ける。
「イイ女だからなあ。このレアってのは」
相手が彼女の名を口にすることが、彼女の髪を剣をにぎった手で撫でていることが、何もかもすべてがおぞましくイノの目に映る。
「レアを放せ」
自身でもそれとわかるほど殺気のこもった声が出た。
「いや、手放すのはそっちの方だぞ。いいじゃねえか。お前だって十分このカラダを楽しんだんだろ?」
「お前をぶち殺すぞ」
「こりゃまいった。ほんと面白れえボウズだな」
こちらが凄みをきかせればきかせるほど、ズラセニは親しみすら見せる様子で返してくる。それがますます怒りをかき立てる。
自分の理性が少しずつ削りとられていくのを、イノは感じていた。今もなお訴え続けているレアの瞳がなければ、それはもうとっくに崩壊していたかもしれない。
「まあ、お前との話は後でな。俺はまずこの街の連中と話があるんだ」
そう言ってイノから視線を外し、ズラセニは彼女を抱えたまま、ざわめきながら眺めている群衆へと足を進めた。そして、大きく息を吸いこむと高らかにしゃべりだした。
「ああ。諸君。さっきそこの連中にも名乗ったけど、あらためてまた名乗っとこう。俺はズラセニ。今日からこのシケットを取り仕切ることになった。文句のある奴は死んでもらう。ただ、それがいい女だった場合は、少し長生きしてもらってから死んでもらう。以上!」
やたら甲高い声での宣言の後、人々の上に沈黙が下りた。さらさらとした赤い頭髪の下で、ズラセニが満足げに群衆を見渡す。
「大将、大将!」
小太りの男がそそくさと彼の脇に寄った。
「いくらなんでも簡潔すぎですって。もう少しそれっぽい挨拶しなきゃあ」
「なんだよマッセ。これでも一晩考えたんだぜ、俺?」
「いや。だからですね……」
そのときレアが動いた。
マッセとのやりとりに抱える力の緩んでいたズラセニの腕から、すっと身体を落とすようにして抜けだす。そのまま身をひるがえし彼と向きあうと、反応の遅れた相手の股間めがけて渾身の蹴りを放った。
が、首領よりも速くマッセが行動に出た。小太りした身体からは想像もつかない素早さで繰りだした脚が、振り上げる途中のレアの脚を蹴りつけ狙いをそらす。
姿勢を崩したレアの脇から、さらに加えられるマッセの追撃。縛られたままでは手をつくこともできず、彼女は身体から石畳の床に倒れむ。
「おお。さすが自称副官だなあ」
一瞬の攻防が終わり、あっけなく地面に転がったレアを見て、ズラセニが手をたたいた。
「助かったぜ。危うく大事なもん無くしちまうとこだった。お礼に、お前にもこの女と楽しませてやるよ」
首領の感謝にとくに反応を見せず、マッセはひょいと頭を下げた。
「しっかし……どこまでも気の強い女だな」
身体を起こしたレアに向けられている凶暴な眼差し。奇襲がふいに終わり、悔しさに顔を歪ませる彼女に大きな手がさっと伸び、首筋をわしづかみにすると、強引に床から持ち上げた。
「いいね。ますますドンピシャリだなあ」
苦しげに抵抗するレアの顎を愛おしげにさすっていたズラセニの片手が、上着の襟を握った。
そして、布の引き裂ける音。
彼女の裸の胸が、この場にいるすべての人間の目の前に晒された。
ふさがれた口からほとばしるレアの悲鳴。イノの怒りの咆哮。ズラセニの部下達の喝采と口笛。
瞬間、むき出しになったレアの白い腹にズラセニの拳がめりこんだ。彼女がぐったりと彼の巨体にもたれかかる。意識を失った身体は、再び石畳の上に転がされた。
「だから落ち着けって。小僧」
すでに駆けだしていたイノに、ズラセニが声を投げかけてくる。仰向けで気を失っているレア。あらわにされた乳房にぴたりと据えられる刃の切っ先。
「殺すまではもちろんしないけどな。切り傷つけるぐらいなら余裕でやるぞ」
イノは動きを止めた。震えるぐらい強く握りしめた剣。噛みしめた奥歯がガリガリと音を立てる。頭の中が燃えてしまいそうなぐらい熱い。かつて『虫』に抱いていた以上の憎しみが心を満たしている。
どくん。どくん。どくん。どくん。
これほど……これほど誰かを殺したいと思ったことはない。
「おい」とズラセニが身振りで背後の部下達に指示する。
悪意に満ちた顔つきの男達が駆け寄ってきて、イノは乱暴に地面に取り押さえられた。腕をねじられ剣を奪われる。背後でホル達が同じように拘束され、声を上げて抵抗しているのが聞こえた。
「俺は、これからまだ外にいる連中を掃除しにいかなきゃならないんだ」
冷たい石の床に顔を押さえつけられながらも血走った眼でにらむイノを見下ろして、盗賊の首領は笑みを浮かべる。
「だから、それが終わるまで、レアはこのままにしといてやるよ。せいぜいそこで見納めしておいてやるんだな」
最後に満面の笑顔を見せると「マッセ」と叫んで、ズラセニはイノに背を向け入り口へと歩み去っていく。その後に付き従う小太りの男。
「ああ。お前ら」
彼は最後に部下達を振り返った。
「レアとその小僧以外は、適当にやっといてくれていいぜ」
卑下た喝采を後に、巨躯が夜の闇へと姿を消した。門付近に群がっていた男達の三分の一ほどがマッセの手振りで出て行く。
とたんに居残りの部下達が群衆に襲いかかる。ドーム状の壁に反響する悲鳴。悲鳴。悲鳴。引きずり倒されのしかかられる娘達。抵抗し、刃に切り刻まれる男
達。ココナの泣き叫ぶ声が背後から聞こえる。そして、意識を失い裸の上半身をさらけだしているレアを囲み、指さし、笑っている歪んだ顔の群れ。
どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。
殺したい。こいつらを殺してやりたい──
(ようやくその気になったか?)
脳裏を焼きつくす呪詛の念に、我知らず口から漏らしたつぶやきに、すっと冷たい囁きが入りこんできた。
遅かったじゃないか──
(いつまでもいい子ぶってウジウジしてるからだろ? 人間相手は嫌だって。誰かに見せるのは嫌だって? その結果を見てみろよ)
ああ。オレが間違ってた──
「何ブツブツ言ってんだ?」頭を押さえている男の声。
「お。コイツ、ここに何か持ってるぞ」
ズボンのポケットに手を突っこまれる感触。何かが抜き取られる感触。
「おいおい。なんだよこりゃあ!」
「すげえな。生きてんのかよ? コレ」
イノは瞳を動かす。視界のすみに映る金色の輝き。それをつかんでいる薄汚い手。
この連中。レアだけじゃなく、シリアにまで手を出したこの連中。
殺してやる。あれを使って全員ぶっ殺してやる──
(本気でそう思ってるのか?)
本気だよ。それでレア達が助けられる──
(ま、それができるかできないかは、お前の腕しだいだな)
やってやる。オレはその気なんだから──
(嬉しいぜ。ようやくまた受け入れてもらえて……)
冷たい囁きが消えていく。帰っていく。父が死んでからずっと在り続けた心の中の住み処に。
おぞましさと恐怖とに遠ざけてきた自らの暗い想い。それを完全に消すことなど叶わないのだとイノは知った。なぜなら、それは自分の一部なのだから。過去
も、今も、これから先も。
悟った事実。もはや一点の曇りもなく固まる意思。
使おう。この怒りを。この憎しみを。自らにあたえられた〈力〉を。
《だめ!》──と、いつかの彼女の言葉。
『だめ!』──と、さっきの彼女の瞳。
そしてイノは扉を開けた。
生まれる〈繋がり〉。巨大な〈力〉と懐かしさが、どす黒いものが、自身のすべてを満たしていく。
怖れはない。さらに扉を開く。あのときよりも、もっともっと大きく。
限界まで開いた扉。怒濤のごとく溢れ出る〈力〉が、自分を中心に波のように周囲に広がっていくのを感じる。外へ、外へ、建物の中だけではなく、この街その
ものを包んでしまうほどに。
《はじめようよ。はやくはやくはやく》
唱和しはじめる幾万もの子供達の声。存在そのものに響いてくる声。
《みんなで聞いてあげる。みんなで見てあげる》
高まる子供達の声が、広がりゆく〈力〉が、様々な情報をイノにもたらしてくる。人々の吐く呼吸の音が。胸で脈打つ鼓動の音が。筋肉の動きが。血の流れが。
『虫』に対するときと違い、相手の意志が脳裏に印象となって浮かぶことはないが、それでも、まるで何百本もの手で触れているかのように、それら一つ一つが
明瞭に識別できる。
《わかる? わかる? わかる? わかる? わかる? わかる?》
ああ。すごくわかるよ──
うれしそうにたずねてくる幼い声の数々。彼らが探してくれる。教えてくれる。自分の狙うべき獲物≠。この場にいる奴も。外に出ていった奴も。
《ぜんぶグチャグチャにしてあげる。ぜんぶズタズタにしてあげる。ぜんぶぜんぶぜぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇんぶ壊してあげる》
そうだ。こいつらをぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ──
「おい。てめえ、いい加減ブツブツうるせえ……」
頭の上からの男の声。それが絶叫へと変わる。
肉の裂ける音。骨の断たれる音。
ふりかかる血潮。その暖かさ。その心地良さ。
わき起こる幾万もの子供達の嬌声。無邪気で楽しい笑い声。
べっとりと濡れた髪の下で、イノの唇がニヤリと歪んだ。
殺戮がはじまった。