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─二十六章  シリアの願い(1)─



目を開けたシリオスは、自分が広大な空間に立っていることに気づいた。その場を照らしているほのかな光が、少年達との戦いで無惨に傷つけられた身体に淡く 投げかけられている。明かりの輪の外に視線を向けてみれば、そこは見渡す限りの暗黒の世界だ。

とたん、がくりと膝をついた。口から吐きだされた血が、吹きとばされた右腕から流れだす血が、暗闇の大地に吸いこまれて消えていく。死の際まで追いこまれ た肉体の訴える数々の苦痛。それは絶えまなく刃で切り刻まれているのに等しい。

もっとも、その痛みによって、死にゆこうとする意識はいまだ明瞭さを保っている。シリオスは自らの身に起きた事態をはっきりと認識していた。

こちらの声に応えた子供達との──世界の破壊をのぞむ想い£Bとの〈繋がり〉が、ついに我が身を真の目的地へと導いてくれたことを。

苦痛をも上まる高揚感に唇をつりあげ、シリオスは頭上をあおいだ。そこには、この無限ともいえる闇の中で輝きながら、自分を照らしている光を放っている存在 が浮かんでいる。

それは途方もなく巨大な球体だった。その規模は村や街どころか、大都市フィスルナであっても余裕で飲みこんでしまえるだろう。きれいな円をえがく球体の表 面には黄金色に輝く糸が幾重にも交わり、まるで太陽のごとき様相を見せている。

金色の光の糸──『網』。そう。これは『網』なのだ。一人の少女が〈力〉でもって織りなし、来るべき世界をいまだ拒み続けている元凶なのだ。

その光の格子に閉じこめられているのは、数えきれないほどの黒い輝きだった。出口のない球体の中で、輝きの群れが縦横無尽に暴れている様は、まるで夜空に ある星々すべてを一箇所にまとめ、メチャクチャにかき回しているように見える。

ときおり『網』の何カ所かにほころびができ、そこから黒い輝き達がこぞって闇の彼方へと放たれるのが見えた。だが、そのほころびはすぐに光の糸が繋がるこ とによって修復される。そして、再び閉じこめられた憎悪達は、出口を求め『網』の中を駆けめぐる……。運良く外へと出ることのできた連中は『虫』となり、 破壊と殺戮の限りをつくすのだろう。こんな不毛ともいえる過程が、二百年ものあいだ延々と繰り返されてきたのだ。

だが、それももう終わりだ。そのためにここまでやってきたのだ。

シリオスは、しだいに小さくなっていく意識を巨大な球体へと向けた。とたん、がむしゃらに荒れ狂っていた黒い輝きの群れが、ぴたりと動きを止めた。

幾万もの意思がいっせいに自分を視て≠「るのがわかる。『虫』と対峙したときと同様の、書物のごとき印象の数々が脳裏にさっと広げられる。しかし、そこ に刻まれているのは敵意や殺意ではない。はちきれんばかりの喜びと期待だ。

もはや自我も失い憎悪そのものと化した子供達──それでも、ようやく彼らは理解してくれたのだ。こちらが同じ想い≠抱く者であると。そして、自分達を 縛めから解き放ってくれる者がついに現れたのだと。

はやく。はやく。はやく。はやく。はやく。はやく。はやく。はやく。

暗黒の世界に唱和しはじめる幾万もの幼い声。同時に、失われつつあった〈力〉が、自身の深奥から再びあふれだすのをシリオスは感じた。

それは子供達の願い≠セった。形をあたえて、と。〈武器〉に変えて、と。忌々しい『網』を破壊して、という狂おしいほどの渇望だった。

我が身を満たす幾万もの〈繋がり〉に、微笑みを浮かべシリオスは応える。目の前に現れた光を──彼らの願い≠長大な刃の形に具現させる。

黒い輝きと共に生き、扱ってきた者としての最後の使命。

シリオスの最後の一撃が『網』に振りおろされる。幾重にも編まれた光の糸が、より強く輝く黒い刃に斬り裂かれ、金色の粒となってキラキラと散っていく。

そして、『網』は一片のカケラも残さず消えた。

どくん──

響きわたった巨大な音。次いで起こったのは子供達の笑い声だった。ついに自由になった憎しみ達のはしゃぐ声だ。

解き放たれ、闇の彼方にまで広がっていく星屑のような輝きの群れが、シリオスの方まで押しよせてくる。飲みこむ。「一つになろう」と語りかけてくる。 「一緒に行こう」と手を差しのべてくる。

恐怖はなかった。むしろ充足した気持ちで、シリオスは自らを誘う想い£Bに身をまかせる。記憶や意識といったものが次々とふるい落とされていく感覚は、 汚れきった衣服を脱ぎ捨てるのにも似た爽快さだった。

何もかもが消えていく。どす黒いものだけが残っていく。しかし、それでかまわなかった。なぜならばそれこそが……。

それだけが……。


*  *  *


どくん──

その音が聞こえたとき、クレナは手にした金梃を思わず落としそうになった。打ちつけていた白熱している金属板から目をはなし、汗ばんだ顔を上げる。

なんだろう?

「今、なんかデカい音がしなかったか?」

目の前にある大きな竈(かまど)の向こうで、同僚の男が声を上げてたずねてきた。

「うん。わたしも聞いたわ。何かしら?」

「外で何かやってるんじゃねえか」

真後ろで仕事をしている長の言葉に、クレナは首をかしげた。外から聞こえた……にしては、耳もとで鳴らされたみたく妙にはっきりとした音だったように思 う。

まるでこの鍛冶場自体が震えたかのような大きな音。大きな荷物がひっくりかえったとか、誰かがイタズラで鳴らした爆竹などとは全然ちがう生々しい音。

心臓の音──そう。あれは心臓の鼓動にそっくりだった。一度きりだったけれども、その響きが持つ不気味な印象は、心に刻みこまれてしまったように強く残っ ている。

そんなふうに感じているのは自分だけではなかったらしい。竈の向こうにいる同僚も、後ろにいる長も、それ以上口を開くことなく何かが起こるのを待ち受けて いるかのように、少し緊張した様子でいる気配がした。

しばらくの沈黙。

何も起こりそうになかった。

「まあ、どのみち俺らには関係ねえさ」

気を取り直すように言ったのは長だ。

「そろそろ昼飯に行った連中が戻ってくるぞ。交代する前に、今の仕事をとっとと片づけてしまおうや」

クレナはうなずく。『聖戦』がはじまり、首都フィスルナを出兵したセラーダ軍を見送った市民達には、式典前ほどの忙しさはなくなっていたものの、再び日常 の生活が戻ってきていた。遠征中の軍に関しての情報は、戦況報告として各地にある砦を通じて首都まで届けられ、政府がそれを発表することによりクレナ達の 耳にも入っている。

多くの兵士達と絶大な兵器『ギ・ガノア』を抱えたセラーダ軍が、ついに『死の領域』へ踏みこんだという報せがもたらされたのは、つい数日前のことだ。以後 の報告はまだ届けられていないが、そのまま順調に侵攻しているならば、彼らは今ごろ『楽園』へとたどり着いているはずだった。

いよいよ戦争が終わりを迎えようとしていること。そして、その結果が自分達セラーダの勝利であることを、クレナ達は疑っていなかった。いや、疑ってはなら ないのだ。不安という名の敵に打ち勝つことが、首都に残された自分達の戦いなのだから。

小さく息を吐き、クレナは目の前にある刃に集中しようとした。しかし、なかなかいつもの調子がでない。もっとも、落ち着かない気分でいるのは職場の誰もが 同じのようだ。ここ数日間みんなの頭にあるのは、いつ終戦の報がもたらされるのかということと、送りだした者の安否だけだろう。

イノとスヴェン。今このとき『楽園』で繰りひろげられているだろう戦いにあの二人はいる。戦場に出たこともなく、『虫』すら見たことのないクレナには、そ の光景を想像することさえ難しかった。それをありがたく思う気持ちと、もどかしく思う気持ちとが交互に顔をのぞかせては消えていく。

バケモノ達がこの世からいなくなっても、伝説の地が人の手に戻っても、イノとスヴェンのどちらか一人でも失われるようなことになれば、自分にとって戦争の 終結など何の意味もない。そして、もし二人とも失ってしまったとしたら──

ぼん、と大きな音がして、驚いたクレナは我に返った。まるで空気の入れた袋がはじけたみたいな音。今度はまちがいなくこの鍛冶場の中で聞こえた。

「おいおい。誰かのイタズラか?」

竈の反対側にいる同僚の声。どうやら立ち上がって様子を見に行ったようだ。クレナが長をふり返ると、相手は老いてなお筋肉の盛り上がった肩をすくめてみせ た。

再び沈黙。今度のは長かった。

「何だったの?」

竈の向こうに声をかけてみる。返事はない。

どさっ、という大きなものが倒れる音と、道具の散らばる派手な音がした。

「ちょっと! 大丈夫?」

金梃を手にしたまま慌てて立ち上がったとたん、クレナはぞくりと身を震わせた。思わず辺りを見回す。いつもの鍛冶場の風景。むんむんとした熱気。だが、な ぜか凍えるようなものが、服や分厚い手袋を通して肌に染みこんでいくように感じられる。

気のせいだ。

そう自分に言い聞かせる。それよりも同僚の様子が気にかかった。

「ねえ──」

竈を回りこみながら呼びかけたクレナの声が止まった。

見慣れた風景の中に存在している異物≠ノ。

それは犬よりも大きな灰色の塊だった。いや、生物だ。クレナが今まで見たことない甲虫じみたその姿は、竈の炎の照り返しに不気味な陰影を映えさせている。 前脚の先端は鎌のような鋭い形をしており、そこからねっとりとした赤い液体がしたたっていた。

ぽかんとした顔で突っ立っている自分に相手が気づく。前脚の間にある小さな頭が、そこに並んでいる無数の丸い瞳が、灼熱した鉄よりもなお紅い輝きが、あき らかな悪意を放ちながらこちらをにらみつけてくる。

痺れた思考が、灰色の生物の下に同僚の顔があることを教えてくれた。さっきまで話をしていた彼は、目と口とを少し開けて竈の方を見ている。ちがう。見てい ない。何も見ていない。なぜならば、彼の頭は身体から離れて転がっているからだ。首をすっとばされ、横たわった胴から血が流れだしているからだ。びっくり すぐるらい大量に。炎の明かりにやけにギラギラと光って──

だしぬけに甲高い音が響き、クレナの鼓膜をビリビリと震わせた。それは自分自身の口からほとばしった悲鳴だった。

灰色の生物の瞳がさらに強く光を放つ。こちらの上げている叫びにこめられた恐怖を理解し、なおかつ興奮したかのように。

そのとき、何者かに腕を強く引かれて、クレナの身体が勢いよく傾いた。悲鳴が途切れ、ガチンと打ち鳴らされた歯に舌を噛みそうになる。反射的に踏みだした 足が、危うく倒れるところだったのを防いだ。

ぎょっとしながら、自分の腕を掴んでいる相手を見る。長だった。皺の刻まれた顔が強ばっている。彼のそんな真 剣な表情を見たのは初めてだ。

長の片方の手が動いた。重量のある金梃が宙を飛び、こちらに迫ろうとしていた灰色の生物の顔面にぶちあたる。紅い瞳の一つが潰れる音がした。彼が商売道具 をぶん投げるのを見たのも初めてだ。

ひるんだ相手に脇目もふらず、長はそのままクレナを引きずるようにして鍛冶場を突っ切っていく。今やはっきりと感じる殺伐とした雰囲気の中に、空気のはじ ける音と、ネチネチという気味悪い音がいたるところから聞こえはじめた。

「あれは……」

悲鳴と入れちがいにクレナの口から出てきたあえぎ声。混乱した思考では、自分が目にしたものを理解しようとすると同時に、必死で拒絶しようとしていた。

「『虫』だ」

長がすばやく断言してしまった。迷いもためらいもない厳しい表情。大昔に彼が兵士をしていたという話を思い出す。

「でも……」

初めて見たバケモノの姿。だけどここは戦場じゃない。ただの鍛冶場だ。フィスルナの……自分がいつも働いている職場だ。

「俺が知るか。とにかく逃げるぞ!」

相手の怒鳴り声に、ひっぱたかれたように意識が立ち直る。認めなければならない。自分達の平和な日常に、今いきなり『虫』という怪物が割りこんできている という現実を。

これまで感じたことのない恐怖がクレナを襲う。それでも、麻痺しそうになる身体を必死で動かし、長と一緒に鍛冶場の入口までさしかかったとき、追い打ちを かけるように外から絶叫が聞こえてきた。

クレナは二つの事実を知った。『虫』が現れたのは鍛冶場だけでなくフィスルナ全体であること。そして──逃げ場などどこにもないことを。

ふといまだに金梃を握りしめたままなのに気づく。自分でもそれをどうするつもりなのかわからないまま、さらに強く握りしめる。

外に飛びだす。さっそく目に映ったのは、他の工場からあふれだしている人々の恐怖と混乱の形相だった。その中にときおり見え隠れする灰色の姿達。 鈍く嫌な音。跳ねあがる赤い飛沫。絶叫。また絶叫。いつもと変わらないのは、青い空にのんびりと煙を吐きだしている煙突の群れだけだ。

死ぬわけにはいかない──再び悲鳴を上げそうになった口を閉じ、クレナは何度も何度も自分に言い聞かせた。何がなんだかさっぱりわからないけれども、泣き だしそうになるほど怖いけれども、とにかくここで死ぬわけにはいかない。大切な人を失うことはもちろん、自分の命だって失われてしまえば何の意味もない のだ。

絶対に死んでやるもんか──あの二人を故郷で待ってあげられるのは、この自分だけなのだから。


*  *  *


「また手が止まってる!」

となりから飛んできた小さな叱責に、イジャは顔を向けた。

「そんなことないって。ほら。ちゃんと動かしてるだろ?」

「ウソよ! ずっと止まってたの見てたんだから。シタッパは、わたしよりもお仕事しなきゃダメなんだからね!」

「あいあい。わかったよセンパイ」

ぶうぶう口をとがらすネリイに肩をすくめてみせ、イジャは脇にあるカゴから作物の苗を取りだし、いそいそと土に植えはじめた。ネフィアの新しい本拠地であ る『谷』の、小高い丘の上に出来た新しい菜園。のどかな日差しの下には、若い娘達が同じように働いている姿が見える。

ネフィアの旧本拠地が襲われた悪夢のような出来事から、もう一月が経っていた。悲劇から逃れた当初は打ちひしがれていた人々も、今では『谷』での新たな日 常に馴染みはじめたところだ。『楽園』へ向かう計画が頓挫した形になり、反組織としての具体的な方策すらすでに失われてしまったが、それでも日々の生活に 精を出すだけの余裕が生まれつつあった。

イジャはちらとネリイに目をやる。彼女はもう父親がいなくなってしまったことを知っている。しばらくは見るのも痛ましいほどにふさぎこんでいたが、周囲の 人々の優しさのおかげで、少しずつ元気を取り戻しつつあった。ネリイ自身も、父の死を乗り越えようと努力しているのだろう。一生懸命に苗を植えている姿 は、その意志の現れのように思える。

首にかけたタオルで汗をぬぐう。たかが菜園の作業とあなどっていたが、慣れていないとけっこう骨身にこたえる。かといって少しでも気をぬこうものなら、ネ リイから容赦のないダメだしが浴びせられる。なぜかは知らないが、この小さな女の子は監視役よろしくイジャにぴたりと張りついているのだ。さらには、彼女 の方が自分よりもきちんと畑仕事をこなしているという事実もあって、現場にはなんとも妙な緊張感がある。 

やれやれ──と、となりの相手に聞こえないよう小さく息をついた。このぶんだと、いつになったら昔のように道具造りに明け暮れることができるのやらわから ない。みんなの生活がちゃんと落ち着くようになるまで、その手伝いでもしようかと決めたものの、さすがに昔が恋しくなってきた。

「二人は今日帰ってくる?」

ふいにネリイがたずねてきた。

「そうだなあ。今日かもな」

その質問と返事は、自分達の間で日課のように交わされているやりとりだ。

『谷』に暮らしている者達には、外にいるネフィアの仲間から色々な情報がもたらされている。指導者アシェルとサレナクの死。そしてセラーダのはじめた『聖 戦』──どれもこれも、立ち直ろうとする人々に追い打ちをかけるようなものばかりだ。

だが、その中で唯一の朗報と呼べるものがあった。それはレアの姿が確認されたという話だ。彼女は本拠地が崩壊してから間もなくして、以前から交易のあった 小さな村に物資の調達に訪れたらしい。

目撃されたのはレア一人で、物資を手に入れる目的も、その後の消息も、今のところは不明のままだ。しかし、きっと彼女のそばにはイノもいるはずだというの が、イジャとネリイ共通の感想だった。彼らが一緒にいるところを最後に見たのは自分達なのだから、そう考えるのは当然だろう。同時に、あの二人がいずれこ の『谷』に姿を現すことも信じて疑っていなかった。

とはいえ、イノとレアが何のために共に行動しているかまでは、イジャにはさっぱりわからなかった。おませなネリイは子供らしい豊かな想像力をはたらかせ、 「二人は恋人になって旅行をしている」と言い張っているが、それだけはまずありそうになかった。いや、天地がひっくり返ってもありえない。

(……おっとやべえ)

再び手が止まっているのに気づき、イジャは慌てて苗の入ったカゴに手を伸ばした。

どくん──

いきなり響いたその音に、苗を掴んだ姿勢のままイジャは固まってしまった。同じくびっくりしたネリイが、手にしたカゴを地面に落とした。

まるで雷が近くに落ちたかのような大きな音。だが、空は見事なまでに晴れ渡っている。

「なんだ?」

口にだして周りを見渡す。視界に映るのは、さっき見たときと変わらないのどかな菜園の風景だ。ちがうのは、働いていた人間全員が驚きに動きを止めているこ とだけ……。

ちがう。何かが決定的に変わっている。それが感じられる。

「……こわい」

怯えた声でネリイが腕にしがみついてきた。さっきまでの元気はとうに消え去っている。幼い子供だからこそ、こちらよりも敏感に周囲に満ちる何か≠察し たのかもしれなかった。

肌で感じる不穏な気配。おだやかな日の光を歪めてしまうような異様な空気。そしてこの静寂──知っている。これと同じものを以前にも経験したことがある。

ぼん、と空気のはじける音がした。さらに固まった二人の前に、まるで手品のように何もないところから肉色の塊が現れた。

腕にすがりついている少女と同じぐらいの大きさをしたいびつな塊の表面は、べっとりとした赤黒い粘液にまみれ、浮きでた血管が土から引っぱりだされたミミ ズのようにピクピクとのたくっていた。

あっという間にそいつから棒のような物体が飛びだす。その先端が耕してある土に突きささったやわらかな音が、やけに鮮明に聞こえた。さらに、じわじわ滲み でるようにして内側から盛りあがってきた灰色の殻が、脈打つ塊のすべてをおおっていく。

ネリイの上げた悲鳴。

一部始終を唖然とながめていたイジャは、はじかれたように我に返った。いつもに似合わぬすばやい働きで、理性が一つの記憶を引っぱりだしてくる。一月以上 前の夜を。野宿していた自分達を襲ったヘビのようなバケモノを。そして、それをたった一人で倒した少年の姿を。

周囲に満ちた殺気。目の前に現れた灰色の塊。何もかもが理解できた。

「『虫』だ!」

声のかぎり叫び、ネリイを抱きかかえてイジャは立ち上がった。周りで働いていた娘達が次々と悲鳴を上げはじめる。不気味な塊は続々と菜園に──いや、この 『谷』全体に溢れようとしている。

「あの小屋まで突っ走って逃げろ!」

菜園の眼下に見える小屋を指差し、イジャは同じセリフを何度も叫んだ。次々と生まれゆこうとしている怪物達を前に、最初は立ちすくんでいた娘達が、その怒鳴り声 に押されるようにおぼつかない足取りで駆けだしていく。いまだ恐怖に叫んでいる彼女達が放りだしたカゴから、苗やら実やらがばらばらと地面に散乱してい く。

その騒動の中、へたり込んで動けないでいる娘がいた。ネリイを抱えたまま、イジャはその娘のそばまで行き、「逃げるぞ!」と腕を引っぱって起こす。相手は 怯えと困惑から立ち直れない顔のまま、ぎくしゃくと走りだした。その背中を見ている自分も、きっと同じような表情をしているだろう。

『虫』──あのバケモノに襲われた夜のことは、今でもはっきりと覚えている。そのとき感じた異様な雰囲気と、いま『谷』を包んでいる雰囲気が、そっくり同 じものであることは疑いの余地がなかった。ちがう。もっとひどいかもしれない。この底冷えのする空気に飲まれてしまったのが『谷』だけではなく、まるで世 界そのものであるかのようにイジャには感じられた。

わけがわからない。なんで畑仕事の最中にこの連中が現れたのか。しかも、『谷』は戦争とはまったく縁のない地にあるというのに。

でも、目の前で起こっている出来事すべては現実だった。蠢く肉塊の群れは、しだいにバケモノとしての形を整えつつある。そして、その後にはじまるのは、女 も子供も関係なしの非情なまでの殺戮だ。

記憶にある恐怖と、目の前の恐怖に、イジャの足は震えっぱなしだった。できることなら、周りの娘達が上げているように思いきり悲鳴を上げたい。だができな い。この場にいる男は自分だけだ。せめて、彼女らの身の安全を図ってやらないといけない。もっとも丘の下にある小屋に逃げこんだところで、絶対に大丈夫と いうことにはならない。それでも、やらなければならない。

こんなのは俺のガラじゃない──必死に娘達を急き立てている最中、頭の片隅で声がぼやいた。こういう役目は、今もどこかにいるあの二人≠フ方がよっぽど 似合ってる。これではまるで、客として芝居を観ているときにいきなり舞台に呼びつけられ、主役を演じろと言われているようなものではないか。とにかく自分 には荷が重すぎる仕事だ。

自身も娘達と丘を駆けおりながら、イジャは首にすがりついてくるネリイをしっかりと抱きしめた。少女のほのかな体温。正直な話、どっちがすがりついている のか自分でもよくわからなかった。


*  *  *


人々のごったがえす市場の中で、その異変に気づいたのはヤヘナが最初だった。

商業都市シケットを襲った騒動の片付けがようやく一段落をむかえ、名物である大市場が再開されたのはつい三日ほど前のことだ。予期せぬ事態に足止めをく らっていた隊商達は、ようやく本来の商いに精をだすことができるようになった。それはヤヘナ達も同じである。

再開初日は、まだどことなくぎこちなさが漂っていた市場だったが、相変わらず外来から訪れる人間が多いことも手伝って、それもしだいに払拭されつつある。 しかし、街路から洗い流された血とはちがい、過去そのものを完全に洗い流すことはできない。それは一つの歴史として今後も人から人へと伝えられ、ずっとそ こにとどまり続けるのだろう。現にシケットを襲った盗賊と、彼らを皆殺しにした少年の話は、怪談じみた逸話として人々の語りぐさになっているのだ。

もちろん、その少年と行動を一緒にしていたヤヘナ達も、人々の関心の的になった。騒動の最中にいた者達も、騒動の後に訪れた者達も、ひっきりなしに訪れて きては、バケモノじみた少年とその連れだったという少女に関しての話を聞きたがった。

それら人々に対し、知らぬ存ぜぬだけではいらぬ詮索心を煽り立てるとわかっているので、ヤヘナ達は適当に答えることにしていた。もっとも、人々が聞きたい のはバケモノの少年の話≠ナあって、イノという少年の話≠ナはないのだ。バカ正直に彼の人となりを語る必要などなかった。

今日も朝早く起きると、皆で倉庫から市場まで荷を運んだ。それを自分達にあたえられた場所に広げて、後は人が集まってくるのを待つ。商談などの一切はホル を含む若い者達に任せているため、ヤヘナ自身はながめているだけだ。べつに宿でのんびりしていてもいいのだが、長年の習慣というものはどうにも抜けきれな い。

意外なことに、客足は例年よりはるかに多かった。「バケモノの少年と一緒にいた隊商」という噂が、新しく外から訪れた人々の関心を呼んでいるためだ。あの 子達は、こちらの商売の迷惑にならないかを心配してくれていたが、結果は正反対の目が出てしまったらしい。なんとも皮肉な話である。

太陽は高く昇っている。布を張った日よけの奥で、ヤヘナはあぐらの上に頬杖をついていた。ホル達が客の相手をしているのをながめていた視線が、あくびがてら つい北へと向く。そこには、シケットの彼方にそびえるアラケル山脈が、防壁の上から少しだけ白い頭をのぞかせていた。

最近あの山を見ることが多くなった。その先にある伝説の都市へ旅立っていったあの子達を見送ってからずっと。

そのとき、ふとヤヘナは辺りの空気が変わろうとしていることに気づいた。なんともいえぬ違和感のようなもの──それが獲物を狙うかのように、活気に満ちた市場をしずしずと這い進んでいくのが見えるような気さえする。

周囲の人間は誰一人異変に気づいた様子はない。しかし、ヤヘナは自分が感じているものが錯覚ではないとわかっていた。それは、長年隊商を率いてきたことで 培われてきた危険に対する本能のようなものだ。疑う必要はない。

そして、ヤヘナが頬杖をついていた手を外した瞬間、

どくん──

心臓が脈打つような音がした。

市場そのものを振るわせるかのような巨大な音に、すべての人間が面白いぐらいにぴたりと口を閉ざした。訪れる静寂。さっきまでの賑わいが嘘みたいだ。

なんだ? どうしたんだ?──得体の知れない音に対し、やがて人々の口からそんな言葉が飛び交いはじめたとき、ヤヘナは「これ」とぽかんと突っ立っている ホルを呼んだ。

「今すぐ宿に引きあげるよう、みんなに言っとくれ」

「えっ! なんだよ急に?」

ホルは二重に驚いたという顔をした。あんのじょう、この脳天気な孫は周りに漂う違和感に気づいていないらしい。

「いいから引き上げるんだよ。ほれ。はやくしな」

「えっ! だって荷物はどうするんだよ?」

もはや口で答えず、ヤヘナは脇にあったザルから堅い殻にくるまれた小さな実をつかみとると、孫めがけて投げつけた。

「痛え! なにすんだよ、ばあちゃん!」

「あたしゃ三度も言わないよ」

ぱしっ、ぱしっ、と景気よく実をぶつけられ、慌ててみんなを呼びに向かうホルの姿に思わずため息がでた。長年の習慣が抜けないせいもあるが、こっちが完全 に隠居できないのは、バカ孫がいつまでもあんな調子だからでもあるのだ。

もっとも……いまから引き上げようにも手遅れかもしれないが。

立ち上がりながら、ヤヘナは人々を見る。不安げに顔を見合わせている彼らに、今までのような活気がもどる様子はない。

人々もしだいに理解しているのかもしれない。広場に──いや、このシケット全体に満ちている何者か≠フ気配を。そして、新たな騒乱がはじまろうとしてい ることを。

「おばあちゃん……」

小さな声にそちらを見ると、いつの間にやってきたのか、ココナの怯えた表情があった。

「いいかい。お父さんとお母さんから離れずにいるんだよ」

ヤヘナは真顔で忠告した。先の騒動でのショックからまだ立ち直れていない彼女には酷だと思ったが、下手なごまかしは無意味だ。この少女も身に迫りつつある 危機を敏感に理解している。

ココナは青ざめた顔うなずいた。髪にある飾りだけが元気に輝く。それは騒動が一段落したあと、ヤヘナが彼女に贈ってやったものだ。

ヤヘナの目が自然とアラケル山脈に向いた。今あの向こうで戦っているかもしれない二人を思った。ココナと同じ髪飾りを受けとった生真面目な少女と、怪物扱 いされるのを承知で自分達を救ってくれた少年の姿を。

やがて市場に最初の悲鳴が起こった。



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