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─二十六章  シリアの願い(5)─



──幾万もの子供達の笑い声の中、周囲の人間達の絶望の声の中、レアは『光の矢』を放ち続けていた。何度も。何度も。何度も。

引き金をひく指がしびれはじめ、目の前で笑うシリオス≠ェ、この攻撃にまったく動じていないことがわかっていても、なおも撃ちこむことをやめなかった。

終わらせない。絶対に奪わせない。

歯を食いしばり、瞳を涙にぬらし、それでも最後の抵抗を止めようとしない自分を笑っている子供達の声。無邪気に。そして無慈悲に。

笑いたければ勝手に笑えばいい──その言葉を手先から生まれる光達に乗せる。放つ。

もう「彼」がこの世界にいないのだとしても。

もう自分がこの世界から消え去るのだとしても。

やがて、突きだした白い小手から、何かを訴えるような断続的な音が流れだしてくる。

その音が何を告げようとしているのかはわかっていた。それでもレアはやめられなかった。やめてしまえば、それが終わりだと認めることになる。奪われるのを 諦めることになる。

巨大なバケモノの身体のあちこちで小さな光の花が咲くたびに、子供達の笑い声はさらに高らかになる。

引き金をひく指から響いたカチカチという虚しい音。レアは手先から『光の矢』が撃ちだされなくなったことに気づいた。

いまだ笑い続けるシリオス≠睨んだまま、力を使い果たしたレマ・エレジオと交代させるように、レアは勢いよく腰に差した剣を引きぬいた。

黒い刃。もはやそれが『光の矢』以上に無力なのはわかってる。自分のやっていることがものすごく無様で、みじめで、かっこ悪いことだってのもわかってる。

だけど。だけど。だけど。だけど──

もうやめろ、レア! と仲間が口々に叫ぶ。

いや! と叫び返す。

わたしの大切なもの。わたしの最後の想い。この心の中にある「彼」の姿だけは、何者にだって奪わせやしない──

これまで楽しげに見下ろしていた男の顔が、残忍そのものの表情へと変わる。胴から伸びている触手の群れが、甲殻におおわれた節をきしませ、ぞっとするほど しなやかに動きはじめる。そのうちの一本が、空を裂く勢いでこちら目がけて繰りだされてくる。

レアは青い瞳で相手を見すえた。

「だめだ! やめろ!」叫ぶスヴェンの声。

「やめろってんだよ! バカ野郎!」わめくドレクの声。

「やめるんだ!」怒鳴るカレノアの声。

思い止まらせようとする彼らの声を無視し、引き戻そうとする彼らの手を振りほどき、レアは駆けだす。

勢いよく身体の脇へ引いた漆黒の刃。破滅をもたらす相手に対し、あまりにも小さすぎる己の力。

それでも。それでも。それでもそれでもそれでもそれでも──

「やめてたまるかぁぁぁぁぁぁっ!」

迫る灰色の影に向かって腹の底から絶叫し、捨て身の一撃を放とうとした瞬間、レアの背中に何かがぶちあたった。勢いよく前に倒れこんだ身体のすぐ上を、人 間大の太さをもつ触手がうなりをあげてかすめる。

瓦礫に激しく手をついたはずみで、頭の黒い兜が外れて転がった。流れる髪につつまれた耳が、背後から聞こえてきたくぐもった声と、自分を捕まえそこなった 触手が何者かに絡みつくきしんだ音とを捉える。

「叔父様?」

振り返ったレアの瞳に映ったのは、節だらけの触手に胴を締めつけられ、苦悶に顔を歪めているガルナークの姿だった。

唖然としているレアや、周りの人間達の目の前で、触手はいともたやすくガルナークの身体を宙へ持ちあげ連れ去っていく。その先にある。シリオス≠フ顔の 前へ。

巨大な顔が捕らえた男を吟味するように見つめる。異形の眼にひしめきあう紅い瞳の群れが、残忍な悦びを見せてぎらぎらと輝く。

なおも身体を締めつけられる苦痛に顔をゆがめ、ガルナークはシリオスの顔をにらみつけた。不愉快そうに、不機嫌そうに──声こそ下まで届かなかったが、彼 の唇が動き、相手に向けて何事かを口にしたのがレアには見えた。

シリオス≠フ笑みがさらに大きくなった。

捕らわれているガルナークの身体を目がけ、さらなる触手が周りから静かに伸びていく。あまりにも明確な殺意を見せて。もはやそれを防ぐことは誰にもできな い。見上げているすべての人間は、麻痺したようにこの処刑を見物しているだけだ。

「叔父様!」

自分でも何を言おうとしているのかわからぬまま、レアは叫んだ。

群がる触手に包まれゆくガルナークが自分を見る。幼い頃の記憶にある叔父としての瞳で。

『レアリエル』

唇が形を作ったのが見えた。

『本当にすまなかった』

そして彼の姿は完全に触手に包まれた。

自分をかばったその行為に、自分へ詫びたその言葉に、どういう答えを返せばいいのか考える時間もなく、レアの頭上でガルナークを包んでいた触手がいっせい に収縮した。

ひきしぼられた果実みたいな生々しい音が響いた。折り重なった触手の間から噴水のように鮮血がとび散り、呆然と見上げるレアへ雨のごとく降り注いだ。

赤い赤いしずくが、かつては叔父だった生温かいものが、ボタボタと自分の姿をまだらに染めていく。その深紅の雨のむこうから、さらに深紅に輝く瞳が自分を 見下ろしている。

終わらせない。絶対に奪わせない。

心の中で上げ続けている声。でもそれは、さっきよりもずっと小さく弱く聞こえた。

どさり、と目の前に塊が落ちてきた。肉と骨のすりつぶされたグシャグシャの塊が。

血みどろの触手が、自分の方へゆっくりと向かってきた。

もう身体が動かない。もう力が入らない。剣が手からぬけ落ち、瓦礫の上で乾いた音を立てた。

終わらせるわけにはいかないのに。奪わせるわけにはいかないのに。

うやうやしく胴へと巻きついてくる触手。ぜいぜいと呼吸だけしながら、ぼんやりとそれを眺めている自分。

触手が締めつけてくる。痛い。苦しい。でもそれだけだ。

声が聞こえる。重くなってしまった首をめぐらす。自分を助けようと必死の形相をした仲間達が、じゃれつくような他の触手達に阻まれ、跳ねとばされ、打ちす えられているのが見えた。

両足が地面から浮く。これからあの男の下へと連れて行かれるのだ。

「こいつを止めろ! 誰でもいい! こいつを止めてくれ!」

瓦礫にふっとばされたスヴェンの悲鳴に近い叫びが、眼下へ遠ざかっていく。

やがて巨大な顔の前にきた。

ところどころに肉組織がのぞいている灰色の殻でできた肌。こちらの身体ほどもある眼窩の奥でギラギラと輝く数えきれない瞳達。人間なんて四、五人は一気の みできそうな大きな口。よだれを流しニタニタ笑っている唇を、ときおり真っ黒な舌がなめていている。

悪夢ですらお目にかかれないような顔──でも、そこまでの恐怖は感じなかった。

もうわかっていた。

これでおしまいだと。奪われるのだと。

だったらさっさと終わりにしてほしかった。さっきの叔父のように。

もう満足だ。やるだけはやった。結局はだめだったけど……自分にできることを一生懸命やったのだ。

この残酷な世界に生まれて。この非情な現実を生きて。

周りに触手が群がってくる。叔父のように包みこもうとしている。レアは静かに瞳を閉じた。

次はちがう世界に生まれたい。この世界よりもう少しだけ優しくて、もう少しだけ温もりのある現実を、ただの女の子として生きてみたい。神様だか何だかは知 らないが、それぐらいのことはしてくれてもいいはずだ。それぐらいは……。

閉じた瞳から涙があふれ、レアの頬をとめどなくつたった。どうしようもなくもれる嗚咽をかみ殺した。

だけど、生きるならやっぱりこの世界がよかった。奪われてしまった大切な人達と出会えたこの世界が。「彼」と出会えたこの世界が。

〈レア!〉

もう一度だけでいい。ほんのわずかだけでいい。「彼」に会いたい。あの顔を見るだけでいいから。あの声を聞くだけでいいから──

〈レア!〉

「……え?」と顔を上げた。

涙にぬれた目をしばたく。だがぼやけた視界に映るのは、自分に死をもたらすために蠢いている触手の群れだけだ。

でも、今のは。今のは……。

跳ね上がりはじめた自分の鼓動。ぼんやりとしていた思考が少しずつはっきりしてくる。

空耳だろうか。聞きたいと願っていたから「聞こえた」と思っているだけだろうか。

〈レア!〉

さらに跳ね上がった鼓動。レアの瞳が大きく開いた。

聞こえた! 必死で呼びかけている声──ちゃんと聞こえた!

「彼」だ。「彼」の声だ。聞きまちがえるわけがない。自分にとって何よりも大切な声なのだから。

どこからかはわからないけど、「彼」が自分を見ている。自分の名前を叫んでいる。

この世界に……「彼」はまだこの世界にいる。わかる。はっきりとわかる。

まだ終わってなかった。まだ奪われてなかった。

瞳の奥に生まれる暖かさ。心の奥に生まれるぬくもり。

さよならしたはずの希望が、遠くへ逃げていったはず力が、そしらぬ顔をしてもどってくる。

とたん、レアは歯を食いしばった。両腕に思いきり力をこめ、身体をよじり、締めつける触手を少しでも緩めようとやっきになった。

急に暴れだした生け贄に興味を抱いたのか、巨大な顔が眼を細めてこちらをながめている。でも、そんなの知ったことじゃない。今はこんなブサイクな顔に怯え てる場合じゃない。

そうだ。自分はここで終わることにちっとも満足なんかしちゃいない。こんなところでおしまいだなんて、ぜんぜん物足りやしない。

がむしゃらに暴れたせいか、相手が処刑の手を止めて見物しているせいか、ほんの少しだけ触手の拘束がゆるんだ。もちろん、縛めそのものから逃れられるわけ がない。周囲では、そんな自分を面白がるかのように再び子供達の笑いが起こっている。

いま自分のおかれている状況はとことん最悪だ。どうあがいたところで、目の前のバケモノに打ち勝つどころか、我が身に襲いかかろうとしている死を防ぐこと すらできやしない。それは十分にわかっている。

恐怖はある。絶望もある。だけど、今のレアにはそれ以上の希望があった。

今の自分にできること。それを「彼」が教えてくれた。これまで何度もそうしてくれたように。

締めつけからわずかに解放された胸に、一気に息を吸いこむ。

「彼」に応える。「彼」を信じる。

それだけだけど……もうそれしかできないけれど。

思いっきりやってやる!

そしてレアは叫んだ。子供達の笑い声に負けないぐらいの大声で。

この世界で一番大切な「彼」の名前を。


*  *  *


──目の前にはシリアがいる。

彼女の手は、自分の手に重ねられたままだ。

「これは……」

「いま外の世界で、イノの大切な人達に起こっている出来事よ。わたしが持つ〈夢の中心〉を通して、それらの一つ一つをあなたに見せたの」

自分が何人もの自分になって、同時に色んな場所にいるような不思議な感覚だった。いくつも目にした光景のすべてが、その場にいるかのようにはっきりと感じ られた。

「みんなが……」

イノの言葉に、シリアがうなずく。

みんながいた。みんなが『虫』に襲われていて。みんながそれぞれの戦いをしていた。そして、そのみんなの中には自分の姿があった。

「このままじゃイノの大切な人達が終わってしまう。もう二度と会えなくなっちゃう。だから急がなきゃいけないの」

もうシリアは微笑んではいない。真剣そのものの瞳で訴えてくる。

「わかってる」

イノは顔をふせる。地面にのせた片手を強く握りしめる。

シリアが見せてくれた光景。その中にレアの姿があった。シリオスの顔をした巨大なバケモノにからみ取られて、絶望にもからみ取られて、うなだれて泣いてい る彼女がいた。

その場に自分がいないのはわかっていた。それでもイノは必死で叫んでいた。この世界で一番大切な彼女の名前を。

だけど、レアは気づいてくれた。そして同じぐらい必死に叫び返してくれたのだ。

イノ──と。

いまレアの姿を見ることはできない。しかし、彼女に終わりが迫ろうとしていることは間違いなかった。しかし、そんな状況にあっても、彼女は最後の最後まで この自分を信じてくれようとしている。

「わかってる」

救わなければならない。レアは……レアだけは、絶対に失うわけにはいかないのだから。

顔を上げる。悲痛にゆがんだ瞳に映る少女の顔。片手に添えられているやわらかな手。

目の前のシリアを殺す。それでみんなが助かる。またみんなに……レアに会うことができる。

「わかってるけど……」

押し殺した声がもれた。

本当にいいのか? 本当にそんなのでいいのか? シリアはこれまでずっと一人でがんばってきたのに。世界中の人を守ってきたのに。それなのに誰にも知られ ることなく、誰からも感謝を言ってもらえないまま、彼女一人だけが終わってしまうなんて、あんまりすぎるんじゃないのか?

「イノが終わりをくれなくても──」

やがてシリアが口を開いた。

「いずれわたしは終わっちゃうの。『樹』の夢を喰らいつくすみんなに、この場所ごと飲みこまれて。そして……みんなと一緒に外の世界を壊しに行ってしま う」

「シリアが?」

彼女は悲しげにうなずいた。

「わたしにも……怒りや憎しみはあるの。お父さん、お母さん、わたしの大切なものを奪った人達への暗い想い≠ェ。それはずっと消えることなく、いまもわ たしの中 に残っている。『みんなと一緒にこの世界を壊したい』って言い続けている。苦しいとき、つらいとき、その声≠フ言うとおりにしようって思ったことは何度 もある」

イノは黙ってシリアを見つめた。彼女が閉じこめ続けてきたものは、『樹の子供』達の憎しみだけではなかった。自分自身の憎しみとも戦ってきたのだ。

そのつらさはイノにもわかる。なぜなら過去の自分自身がそうだったから。そして、自分はそのつらさに負け、憎しみをぶちまける戦いの日々に足を踏みこんだ のだ。レアも……そしてシリオスもそうだった。

「どうして──」聞かずにはいられなかった。

「シリアは負けずにいられたんだ? たった一人でそこまで戦えたんだ?」

「イノと同じよ」

「オレと?」

「わたしは一人ぼっちじゃなかった。だって、この子を通して〈繋がって〉きたあなた達がいたから。みんなわたしにとって大切な人達だった。そのみんなに生 きていて欲しかったから、わたしはがんばってこれたの。それはイノとレアが、ここまでがんばって旅をしてきたのと何も変わらないはずよ」

彼女の言葉に、イノは今さらのように気づいた。自分とレアのはじめたこの長い旅は、ただ単に『楽園』という場所までの道のりではなかったのだと。自分達は 知らず知らずのうちに、この旅路を通してもう一つの道≠歩いていたのだと。これまで憎しみをはらすためだけに突き進んでいたものとはちがう道≠ノ。

イノは知った。シリアもその道≠歩んでいたのだと。自分達よりもずっとはやくから。一生懸命に。

「わたしもこの世界が大好き。イノ達に出会えたこの世界が」

そのシリアが微笑む。両方の手を重ねてくる。

「だから壊れてほしくなんかない。壊したくなんてない……」

崩れていく笑顔。震えていく声音。すがるように見つめてくる緑の瞳。その中で潤んでいる自分の姿。

「お願い……イノ……お願いだから……」

祈るようにうつむく顔。閉じられる目蓋。強く重ねた手の上に、こぼれ落ちていく涙。涙。

「わたしを終わらせて……わたしをたすけて……」

このままでは憎しみに飲まれてしまうシリア。『虫』となって世界を壊してしまうシリア。今まで精いっぱい歩いてきた道から引きずりだされ、歩きたくもない 道を無理やり歩かされてしまうシリア。

イノは知った。彼女の本当の願い≠ェ何であるかを。それが戦争を終わらせるとか、人々を救うとかいった大きなものではないことを。「自分の大好きなもの を壊したくない」という、ごくごく単純で当たり前のものであることを。

自分だけがこの少女を救うことができる。レアや他のみんなと同じように大切で……心から『たすけたい』と思えるこの少女を。

やがて。

「わかった」

涙でぬれた彼女の手をそっと両手で包むようにして、イノはうなずいた。

叶えてあげよう。この手で。この意志で。

シリアの願いを。

一度は落とした剣を拾う。一度は折れた膝で立ち上がる。

腕を大きく振りかぶる。黒い剣が青空にそびえる。

「ありがとう」

顔を伏せたままで、いずれ振りおろされる刃を待ち受けているシリアがいった。

少女の表情は見えない。

それでも、イノには彼女が泣いているのがわかった。

終わる自分にではなく、終わらせる相手に。

自分への悲しみではなく、相手の背負っている悲しみに。

最後の最後まで誰かのために心を痛めている彼女の優しさを、この〈繋がり〉が教えてくれる。

消え去りそうな声よりも、小さく震えている肩よりも、ずっとずっと強く。

このまま終わりにはできない──当たり前のようにそう思えた。

そして心に生まれた決意。イノは目を閉じる。大きく深呼吸する。

できるだろうか? 言えるだろうか?

「オレもだよ。シリア」

少女が顔を上げる。泣きぬれた瞳に映っている自分の姿。

笑顔を見せてあげたかった。これからずっと遠くへ去っていくシリアへ。大好きなこの世界で、彼女が最後に目にする景色として。

「ありがとう」と言ってあげたかった。これまでずっとがんばってきたシリアへ。大好きなこの世界で、彼女が最後に耳にする言葉として。

ところが──

イノは失敗してしまった。一生懸命やったけれど、少しもうまくいかなかった。決意したはずの表情と声は、最高にかっこ悪くて、最低なぐらいみっともないも のになってしまった。

どこまでも情けなくて。いつも誰かに支えられて。そんな頼りない主を最後に助けてくれたのは、身体よりも心よりも奥にある〈力〉だった。

〈繋がり〉が、その不思議で強い結びつきが、自分が贈りたかった想いのすべてを彼女に伝えてくれた。

かっこ悪い笑顔よりも、みっともない言葉よりも、ずっとずっと強く。

自分の持つ人にはない〈力〉。ときにそれに怒って、ときにそれに怯えて……これまで何度もいらないと思ってきた〈力〉。

でも今はよかったと思う。自分が『樹の子供』で本当によかったと思う。

なぜなら、シリアを笑わせることができたのだから。

こんなに嬉しそうに、こんなに幸せそうに、彼女は笑っているのだから。

光そのものの少女の笑顔へ。輝きそのものの少女との〈繋がり〉へ。

イノは剣を振りおろした。 



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